まず、客観である「つぎ」的表現から分析する。「次々発」という言い方からも分かる通り、「つぎ」は連ねて用いることができるのである。
「次の、次の信号を左折してください」
「次の、次の、次の日曜なら空いてます」
こういった表現が可能なのは「つぎ」が任意の基準を設定しさえすれば、そこからの「next」を言うことができるからであり、例えば、「今度の次の試合に照準を合わせて練習しよう」というように「こんど」を基準とした「next」でも表現可能なのである。先にこれを客観的と言ったが「任意基準式」と言うのがより正確なのかもしれない。
一方、主観である「こんど」的表現では基準は固定式である。
「今度の、今度の日曜に行きましょう」
「次の今度はうまくやろう」
といった表現が不適格なのはそのせいである。「こんど」は飽くまで自分(=言表主体)を絶対的な基準とした「next」表現なのである。故に「こんど」は当事者としてその場に身を置いている場合を除いては使用できないのである。自分が絶対的な基準であるために「つぎ」と併記されても「こんど」の方をより身近に感じるのである。何せ「わがこと」だからである。
さらに「こんど」は当事者的表現であるために近接未来だけでなく、現在進行をも言うことができる。「今度ばかりは許さない」などがそうである。
つまり「こんど」も「つぎ」も「next」という意味では近接度に違いはなく「わがこと」かどうかという全く別の次元において初めて近接度に差が生じて来るのである。東京の表示形式は間違ってはいなかった。ただ、次元の異なるものが併記されているという違和感があったのである。
今日も当事者として電車に乗る。待つのが苦手だから「こんど」の電車に乗る。そこへ車内アナウンスが流れる。
「『つぎ』の停車駅は四谷三丁目~、お出口は…」
思わず「そこは『こんど』のだろ!」と突っ込みたくなった。
image by: Mister0124 [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons