「小室圭問題」よりも遥かに深刻。いま皇室制度が抱える真の危機

 

両陛下と比較すると、他の皇族方というのは、まったくそのゾーンは広いし、中心からはブレるし、そもそも自分の濁りを意識するような冷めた自分も含めた「機関」としては未完成です。秋篠宮さまが自分は帝王学を学んできていないということを、機会あるごとに言われていますが、恐らくそのとおりで非常に危惧をされる部分です。しかもこの方の場合は、帝王学の定義にも近づいていないので、学んできていないことへの危機感自体が、ゾーンからズレまくっている感じもあるわけです。

であるにしても、秋篠宮さま以下の皇族についていえば、それでも凡人である政治家や経済人、文化人のように濁ったダメダメの人間と比べれば比較にはなりません。やっぱり「公務」として皇族が出てこないと「サマにならない」という局面があるのはそのためです。

例えばある学術会議があって、その開会式に「公務」として皇族がスピーチするという慣例があるとします。その場合に、皇族が減ってくると、そのレベルの「公務」はとても対応できないとして、会議のメンバーが互選した代表などがスピーチをしたとします。

そのスピーチに、例えば前代表批判のニュアンスが出たり、政府の介入への反発ニュアンスが出たり、俺様あるいはワタクシは偉い的な押しが出たりすると、結局はその開会式の重みは失われます。一番の問題は、スキルのない俗人が「毒にも薬にもならないスピーチ」をやると、魂が抜けてその場が本当に弛緩してしまうのです。

例えば保守派の総理が広島の原爆忌へ行って、用意された原稿を読むと「棒読みだ」という批判を受けるということが良くあリます。あれは心の奥に「核武装論を秘めて」いて、「偽善」的な「過ちを繰り返しません」的なメッセージを嫌っているから「あそこまで嫌味な棒読みをする」のだと思っている人が多いと思います。私もそう考えていましたが、RPという概念を考えてみると、違うことがわかります。

小泉純一郎氏も安倍晋三氏も、あの場で「膨大な死」と向かい合いながら「政治的な矛盾、つまり核の傘と非核願望、自主防衛と核武装の願望、親米と反米の情念」がゴチャゴチャに混ざりあったあの慰霊碑の炎の前では、どのように喋るのか、つまりその重さと複雑さを受け止めるだけの、語りのスキルもスタイルも持っていなかったのだと思います。だから、棒読みしかできないのです。

そこへ行くと、皇族の場合は別にその分野の専門家でなくても、明らかに「その場の中心点」を探り出して、そこでブレなく話すということが出来るわけです。歴史的な慰霊祭などだけでなく、国体なり植樹祭といった地味な行事でも「社会的意義」を認める中で、全く透明だけれども退屈させない不思議なスピーチをやって開会の雰囲気作りが出来るわけです。

それが福祉団体の定例会などになると、皇族の「RP効果」は抜群となります。予算をもっとよこせ、でもないし、お涙頂戴でもないし、世間への恨みツラミでもない、無色透明だけれども現場をリスペクトして、その活動を世に知らしめるということでは全くマイナスでなく、プラスである、そこにはやはり無形文化財的な口跡と、摩訶不思議な原稿が必要になるわけです。

外交などになると、RPというのは誰にもマネのできないレベルになるわけです。例えば、トランプ来日の際に、両陛下はRPの威力を見せつけたわけです。東大ハーバードとオクスフォード(MAは学習院)で学んだ夫婦が、あのドナルド・トランプとメラニアのカップルに、一切恥をかかせず、しかもメラニアに至っては大感激して帰ったというのですから、タダゴトではありません。

そのノウハウこそRPの真髄であり、そのスキルというのは、歌舞伎の大名跡と同じで、幼いときから一挙手一投足について学び、鍛え、ブレなく仕上げていって初めて可能になるものです。

問題というのは、そのようなRPというものの伝承が危機に瀕しているということであり、その危機意識が全く理解されていないということに二重の危機感を覚えます。

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