故・古賀稔彦が25年前に語った両親と兄貴「家族一丸」の知られざる秘話

Haraigoshi
 

「平成の三四郎」と呼ばれ日本中に感動と勇気を与えてくれた、元柔道日本代表でバルセロナ五輪の金メダリストの古賀稔彦氏。53歳の若さで亡くなった古賀氏は、普段どんな素顔を持っていたのでしょうか。ライターの根岸康雄さんがコミック雑誌のコラムとして90年代初頭から約10年間インタビューを続けてきた芸能人や文化人らが自身の親について語ったエピソードを毎号貴重な写真とともにお届けするメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』。今回、根岸さんは生前の古賀稔彦氏が自身の両親との思い出を話した貴重なインタビューを紹介しています。

※本記事は有料メルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』2021年4月1日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

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古賀稔彦/柔道家「自分も兄貴も中学1年から寮生活だったが、柔道を通して家族は一つだった」

古賀 稔彦 柔道家(1967年11月21日~2021年3月24日 死没前に九段へ昇段)環太平洋大学教授、弘前大学博士(医学)。日本健康医療専門学校校長。佐賀県三養基郡北茂安町(現・みやき町)出身。1992年バルセロナオリンピック柔道男子71kg級金メダリスト。身長169cm。兄も柔道家の古賀元博。古賀颯人は長男、古賀玄暉は二男。

講堂学舎の後輩、吉田秀彦の漫画の原作を手掛けたのは20年ほど前だった。その中で古賀稔彦と何回もお会いし話を聞く機会を得た。どこか柔らかい雰囲気を感じさせる印象だった。兄の元博氏は当時、福岡で県立高校の教員をしておられた。なぜ、稔彦が一本背負い得意なのか。「あれはパターンがあるんですよ。はい、ここ持って、次にここ、その次はここと、一本背負いがしやすいように相手を自分のペースに引き込んでいく」なるほどと思った記憶がある。中学生から寄宿生活を送った講堂学舎の古賀稔彦、吉田秀彦、指導者の吉村和郎(元全日本柔道連盟コーチ)、バルセロナ五輪金メダルまで駆け上がるこの3人は傍目に見ていて、絶妙の間柄だった。(根岸康雄)

自分と兄貴にとって 柔道の初のコーチは親父だった

あれは何歳の誕生日だったか、兄貴と母さんと父さんがいてケーキがあって、自分は布団に横になって、家族で誕生日のお祝いをしている、そんなシーンが頭に残っています。柔道をはじめるまでの自分は体が弱くて。「なんばしちょるか!」2歳違いの兄貴は腕白で、母さんにしょっちゅう怒鳴られていたのを、自分はいつも布団の中から見ていた記憶があります。

父さんは建築関係の職人で、鉄骨の仕事をしていて性格も鉄と一緒、堅くて曲がったことが大嫌い。無口で浅黒い顔であまりしゃべらない。父さんのそんな雰囲気がなんとなく怖かった。

小学1年生の時、近所の遊び仲間が柔道の町道場に通いはじめたのがきっかけで、兄貴と一緒に柔道をはじめると、父さんの存在がものすごく大きなものになっていった。若い頃、柔道をやっていた父さんが最初の僕らのコーチでした。引っ越して道場から遠くなると、父さんは必ず夕方5 時20分には家に帰ってきて、風呂に入って現場仕事で真っ黒に汚れた体を洗い流すと、兄貴と自分を車に乗せて道場までを送り迎えする。それが日課でした。

「こうしろ!ああしろ!」

道場の隅っこでこちらに目をやり、両手を動かしながらアドバイスする父さんの真剣な顔を今も覚えています。父さんは庭先に鉄柱を埋め込み、それにチューブを巻きつけたトレーニング用の器具を手作りし、それを相手に見立て自分や兄貴は、チューブを握って素足で打ち込みの練習をさせられました。

父さんは子供と一緒に柔道に取り組むのが好きだったに違いない。一番の趣味だったのでしょう。 子供が真剣に柔道に取り組んでいる姿を見るのが、楽しかったんじゃないか。

「稔彦、頑張れ!」
「あーいかんねー! その組手はなっちょらん!」

母さんのそんな声援は試合会場でいつも一番響いて聞こえました。ちょっと太っていて笑い声も派手で、無口な父さんとは正反対でした。だいたい九州の女の人は明るくてよく喋る人が多い。その点で母さんは典型的な九州のおっかさんという感じでした。

ある日のことです。いつものように道場まで送ってくれた父さんは、道場の前で車をUターンさせ、そのまま家に戻ってしまった。

「道場に着いたぞ」

何度声をかけても居眠りをしていた自分と兄貴が起きなかったことに、一本気な父さんは腹を立てたんです。

──真剣に柔道に取り組む態度じゃなかばい!

父さんが無口になればなるほど、ヤバイと知っている自分と兄貴は、別の部屋で夕食を取る父さんの様子をうかがっていた。すると母さんが部屋に入ってきて、

「あんたらなんばしとると! はよ、腕立てでも腹筋でもやらんとね!」

と言われて。必死になって腕立てと腹筋をしている姿に父さんの表情が和らぐと母さんは、
「ちゃんとお父さんに謝りなさい」と。

「ごめんなさい、一生懸命やりますから、これからも道場に連れていって下さい」

自分と兄貴は汗をびっしょりかいたまま、父さんの前に正座して頭を下げました。気の利いたことが言えない父さんは、あの時も黙っていた。

──柔道は自分のためにやっている、だから自分から率先してやらなきゃいけない。

この時、強く自分に言い聞かせたことを思い出します。この思いは後々まで自分の心の奥底に残り、自分が柔道に取り組む時の一つの柱になっています。

大会優勝に向け、 家族全員が一丸となって

努力しだいで強くなれる──。それが柔道の魅力でした。強くなりたい、勝ちたい、柔道を続けたのはそんな強い思いがあったからです。我が子の柔道を強くしてやりたいと両親も一生懸命でした。どんな大会でも試合に出たら勝ちたい、優勝したい、それが自分と兄貴のそして家族にとっての目標でした。一つの大会が終わると次の大会に向けて、両親と兄貴と一丸となっているという実感がありました。

子供の頃から目に焼き付いているのは、自分たちが試合で負けた時の父さんと母さんのがっかりとした後ろ姿。自分たち以上にがっかりして、肩を落としていました。普段、あんなにおしゃべりな母さんが無口になって、 父さんは増々、無口になって。母さんは何に対しても一生懸命になる人だし。親戚が集まるとよく花札をやっていた父さんは、勝負事が嫌いじゃない。二人とも単純と言えばそうなんでしょうけど、だからこそ、落胆した気持ちが伝わってきました。

まず、2歳年上の兄貴が小学校を卒業すると、上京して柔道の強い選手ばかりが集まる全寮制の私塾、講道学舎に入ることになって。両親は複雑な気持ちだったのではないか。母さんは外で人と明るくおしゃべりをしたりして、発散できる性格ですが。親父は無口な分、中学生になったばかりの息子が親元を離れ上京することについて、割り切れない気持ちが胸の内にたまっていたのではないでしょうか

兄貴が上京してすぐに、あんなに強そうに見えた父さんの頭に、十円ハゲが出来ているのを知って。兄貴がいなくなった寂しさと、心配している気持ちが僕にも伝わってきました。

稔彦ちゃんまでいなくなったら、お父さんお母さん寂しがるよ」

2年後、自分も上京して全寮制の講道学舎に行くと決めた時、親戚の人たちにはそう言われました。でも僕は兄貴を追いかけたかった、もっと柔道が強くなりたかった。田舎に残る気持ちにはなれなかったのです。

父さん、母さん、あの時は僕がいなくなったら寂しいなんて、一切口に出さなかったですね。まず僕のことを考えてくれた。子供のためにいくらでも自分の気持ちを殺せる人なんだなと、思いました。

柔道が強くなってほしいという気持ちより、やると言った以上は徹底的に一生懸命やってほしいと、両親はただそれだけを願っていたんじゃないか。

講道学舎で過ごした中学、高校時代は、休みに1週間ほど兄貴と一緒に帰省するだけで。母さんはいつも笑顔で明るく迎えてくれたけど、感情表現の仕方がヘタな父さんは、うれしいと逆にムスッと黙ってしまう。

上京して講堂学舎での寄宿舎生活では、兄貴がそばにいたことが僕にとっては大きかった。背負い投げを教えてくれたのも兄貴でした。足の形、指の形、格好からタイミングとか、

稔彦違うだろ!」「お前は何度言ったらわかるんだ!」「しょうがねえヤツだ!」

等々、イヤになるぐらい兄貴に注意されて。基本を厳しく徹底的に叩き込まれたことが、背負い投げが得意技として身につくことに繋がっていきました。

最高の結果、それは家族で一生懸命にやってきたことが……

東京で開かれた全国レベルの大きな大会の会場には、両親の姿が観客席にありました。小学生の時と同じで、オフクロの声援は一番大きかった。

いろんな大会で優勝して両親を喜ばせることができた反面、父さん、母さんにはいろいろと心労をかけたなとも思います。

ソウル五輪の代表に選ばれたのは、自分が20歳の時で、優勝候補といわれ周囲の期待も大きかった。それが3回戦で負けてしまって。自分自身は正直、負けてオリンピックの重圧から解放され、楽になったという気持ちを抱いたけれど。

試合が終わった後、テレビで観客席にいた両親が周囲に頭を下げているシーンが映し出されて。元々、まわりに気を遣う父さん、母さんだから。

「期待にそえなくて申し訳ありません」

そんな気持ちでまわりに頭を下げていたに違いありません。父さん、母さんのああいう姿を見せられると……

──やっぱり世界一にならなきゃいけない。

そんな気持ちがふつふつを湧いてきたのを覚えています。もう二度と、親にあんな姿をさせてはいけないと。

4年後、バルセロナ五輪の時はバルセロナに着いて、練習を始めた初日に左足の膝の関節を痛める大ケガに見舞われました。母さんが貧血で倒れたという話が耳に入ってきて。僕を心配している気持ちがひしひしと伝わってきました。

新聞には「とても試合に出られる状態ではない」という感じで書かれていたし。監督やコーチも、たぶんダメだろうと思っていたに違いない。

でも父さん、母さん、自分は絶対に勝てるという思いを持ち続けたから。

バルセロナの柔道会場の観客席には、両親と兄貴の姿がありました。優勝を決めて表彰式が終わると、僕は家族のいる席へと向かった。

「お母さんに金メダルをかけてあげなさい」

コーチに促されて。胸に金メダルが光る母さんは、泣いてるような、笑っているような顔で、兄貴も泣き笑いだった。母さんの横で親父は、ちょっと照れ笑いをして冷静さを装っていた。

中学から寄宿舎生活をして、これまで家族で一生懸命にやってきたことが、運よく最高の結果につながった、周囲の期待に応えることができた。自分も含めて両親や兄貴はホッとしたんじゃないか。

あれから2年半、一度は引退を考えたけれど、もう一度、青畳に上がろうと決めた自分に、父さんはちょっと渋い顔をしました。

あー、親父はもう柔道のいろんなプレッシャーから解放されたいんだな、僕の脳裏にそんな思いが過ったけれどすぐに、

「やる 以上は勝たんといかんとね」と。

稔彦!いかんかー!」「なんばしちょる!」

世界柔道選手権の代表を決めた 5月の福岡での試合も、観客席から母さんのそんな大声が響いていました。来年のアトランタを目標に、家族のためにも──

弱い者を守る気持ち──

やがて誕生するであろう自分の子供が男の子だったら、受け身を教える前にまず、そんな柔道の基本中の基本を教えていきたいです。(ビッグコミックオリジナル1995年8月20日号掲載)

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2020年12月配信分
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  • 藤村俊二「躾だけはうさかったオフクロ、親父の『良志久(らしく)』の掛け軸が意味するもの」』らしく(12/17)
  • 山城新伍「人間の存在は五分と五分、人はみな互角やというそれが親父の考え方だ。徳のある人だった」(12/10)
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2020年11月配信分
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  • 北野大/明治大名誉教授・タレント・たけしの兄「「ペンキ屋を手伝った。人に頼まれると断れないのは僕も親父にそっくりだ」(11/12)
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2020年10月配信分
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  • 小林カツ代「 “一生懸命 やってる姿がたまらん”ポロポロ泣く情にもろい父の戦争体験、心に刷り込まれています」(10/22)
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image by:Gotcha2, Public domain, via Wikimedia Commons

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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