「わしは天才相場師や」SMの鬼才・団鬼六を育てた詐欺師のような父

 

ついつい親父の口車に乗って50万円用立てたが…

敗戦の年の昭和20年3月になって親父は召集された。覚えているのは御近所さんが日の丸の小旗を振って駅まで見送りにいくと、坊主頭の親父はミカン箱に上がって、

「私が戦地に赴く限りは今後、一機たりとも敵の来襲は許しませんッ!」

なんて大声を振り絞って。

ところが、召集された翌日の3月21日は大阪大空襲だった。まったく親父は後先考えずに、ノリで生きているような人だった。

敗戦直後は博打好きの知り合いを家に集めちゃ開帳し、寺銭を取って食いつないだり。戦後の親父はノリがいい遊び人の本領発揮といった感じだった。

僕が大学3年の時だったか、

「二度とこんな相場はない、絶対に儲かる!」

口から泡を飛ばす勢いで言うから、つい信用して「絶対に儲かる!」仲間を回り当時の金で50万円ぐらい集めて、親父に貸した。ところが、あっという間にその金を飛ばしちまって。当時の50万円と言ったら大変な金額だ。その気になっている友達の手前、しょうがないから彦根の親戚に相談にして、50万円用立ててもらった。

仲間に返すはずのその50万円を見てまた親父が、

「おまえも相場師の息子やろ、なぜその金を倍にしたろと思わんのや、勝負して100万になったら、50万丸々儲かるやないか」

とかなんとか。そんなバカなことはあるわけないと思いつつも、ついつい親父の口車に乗ってその気になってしまうところが、一発屋の僕の性格を物語っていて。気づいたら、親戚から借りた50万円も飛ばしちゃったことがあった。

オフクロはそんな親父や僕を見て、あきれかえっていたんじゃないかな。

大阪に転居してからのオフクロは、家計をやり繰りするために自分で仕事を決めてどこかに働きに出ていた。家計を支えていたオフクロは年を取るとともに信心深くなり、書道に打ち込んだりと、静かになっていく印象だった。

結婚、子供を作り離婚、文学を志し女優となって、その間には華やかな男関係の遍歴もあったろう。ひょっとしてオフクロは若い頃、けっこう激烈な人生に身を置き、自分の内にある情念を発散し尽くしたのかもしれない。

親父と知り合った23、24歳の頃には、自分の情念のようなものを燃焼していて、人生に達観していたのか。親父と歩んだ人生はしょうがないという感じで、流れに任せていくだけだったのかもしれない。子供がいたら離婚も面倒臭かっただろうし。

オフクロと親父では知性が違い過ぎて、夫婦ゲンカにもならなかった。親父はギャーギャーわめくけど、オフクロはそれを無視するから。頭にきた親父がそんなオフクロにむかって、枕を放り投げたりしてた。オオフクロから見れば、親父も子供みたいなもんだったに違いない。

また、怒った時のフクロの毒舌は一級品だった。親父がバカなことを言うとよく鼻で笑うようにこう言っていた。

「あんたドン・キホーテや」

そう言われると親父はムッという顔をして黙っていた。

「あんたは何もできず、誇大妄想癖の人間や」

という意味だろう。

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