差別されていた人々に、親父はまったく分けへだてなかった
渡辺医院は京都西陣の千本というところにあって、あたりには現在でいう被差別部落と在日韓国・朝鮮の人たちの部落があった。親父は被差別部落の人間だろうが、在日の人間だろうが、分けへだてはまったくなかった。子供の目には、それがはっきりと分かっていた。往診の帰りでも、いい匂いがすると、
「おばあちゃん、リュウマチの具合はどう?元気しとるか、おっ、なんや、旨そうやないか」
被差別部落の人の家でも、在日韓国・朝鮮の人のとこでも上がり込んで、ご飯をごちそうになったりしていた。
往診に行って治療代の代わりにネギの束を抱えてきたり、在日の患者さんから牛のテールを新聞紙にくるんでもらってきたり。金さんという患者さんの朝鮮語のイントネーションの混じった聞き取りにくい日本語も、「うん、うん、そうかそうか」なんて合槌をうちながら、ニコニコして聞いていた。
当時の町は豆腐売りの声や豆売りの声や、人の呼び声がいっぱい飛びかっていた。その中にトウモロコシや米をお菓子にする、“爆弾あられ”を売って歩く在日韓国人のおじさんがいた。
そのおじさんの呼び声が、「チョイボノボンヤデ」みたいなかなりヘンな日本語で、僕はおじさんが醸し出す雰囲気に笑っちゃったのだけど。それを往診の途中の親父に見られたらしい。その日の夕方の飯の前だった。ブ厚い落語全集を読んでいた親父に、「きょう見たで、お前、笑うてたやないか。お前な、いいかげんにせえよ」そう言われて、落語全集でコツンと頭を叩かれた。
お前は在日の人の日本語がおかしいと笑っていた、そういうふうに人を見ることはいいことではない、親父の言葉には、そんな意味合いが込められていたのだろう。
でもね、それはちょっと違う。僕はね、おじさんがイントネーションの違う日本語をわざと使い、子供たちに真似され囃したてられ、それによって子供たちを集めて商売につなげている、そんなしたたかさを感じた時、なにかすごく物哀しかったんだ。
みんな親父に甘えていた。昔の町にはそんな役割の人がいた
当時、ほとんどの日本人は在日の人の名前を日本語で呼んでいたけど、オフクロは渡辺医院に来院する患者さんの名前を民族名で呼んでいた。例えば「キンさん」だったら「キムさん」というふうに。聞き慣れない名前がおかしくて、僕がクスッと笑ったことがあった。その時も、親父に意見をされたことを覚えている。
「人の名前を笑うのは、人の尊厳を著しく傷つけることになるんだ、大変なことなんだぞ」
人間の存在はみな等しい、人を分けへだてしてはいけない──、あの環境の中で育った僕は、そのことを心に刻みつけられたと思っている。
振り返ると、親父はアウトローにやさしかった。西陣という土地柄は歓楽街を控えヤクザも多くて、ケンカで刺されたヤクザがうちにかつぎ込まれ、「先生頼みます!」みたいなこともあった。
「よっしゃ、わかった」
親父はただでさえあまり麻酔を使わない医者だったが、そんな時はなおさらだ。
「痛い!痛い!先生、堪忍や堪忍や!」
「おまえにも人の痛みがわかっとるか。ワァーワァー泣きわめいて、お前んとこの兄貴分はこんな根性なしだと、子分どもにわしがいいふらしたるぞ」
怒鳴り声だったが、隣の部屋で様子を探っていた僕には、相手に言い聞かせるように聞こえた。
渡辺医院にはいろんな人が相談を持ち込んできた。
「先生、路面電車の線路に酔っぱらってひっくり返って動かんのがいてる、ちょっと行ってやって下さい」
近所の巡査が親父のところに来てそう訴える。カバンを下げた親父が人だかりをかき分けて近づくと、飲んだくれた酔っ払いの年寄りが、路面電車の線路に大の字になって寝ている。
「あんたな、なに気張っとるのや、はよ行こう、おいで」と、親父は酔っぱらいのおっさんの手を取って。
今考えると、みんな親父に甘えていたんじゃないか。昔の町にはそういう甘えを許す人間が必ずいた。
「安治な、人は生まれながらにして平等であると、えらい人はいうけどな。それはウソや。人は生まれながらにして人間だ、だからこそ平等でなくちゃならんのだ。そういうことだ……」
これも親父の言葉だった。
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