葬式の時に知った、”親父って、こんな人やったんや…”
真冬の夜中でも患者さんから連絡が入ると、カバンを持ってマフラーを巻き、自転車を出して。そんな親父を見て育ち、僕は医者にはなるまいと思った。道楽をしていても途中で止め、患者のもとに行く。患者やみんなの話の聞き役で。損な役回りじゃないかと。京都には太秦の撮影所がある。当時は時代劇の撮影が全盛だった。時代劇が好きでスターに憧れた。
「僕が役者になったら、どうする?お父ちゃん」
「なれるもんならなれや、わしもそういうのやりたかったんやけどなぁ…」
親父がそう言ったのは、ニューフェイスに合格する前、京都の太秦に足しげく通い、時代劇のエキストラをやっていた当時のことだ。
医者の不養生という言葉があるけど、糖尿病の持病が悪化しても、親父は大きな病院にいかず、本格的に病気を治療することもなくずっと家にいた。多分、オフクロに甘えていたのだ。親父にとってオフクロが最高の“医者”だったのかもしれない。医者と看護婦、夫婦は助け合って生きてきたのだから。
親父が亡くなったのは、俺が15歳の時だった。親父の葬式は通りが人で埋まった。霊柩車が動きだすと、
「先生!先生!」
いろんなイントネーションの叫び声が聞こえた。「先生」という声にバラエティーがあって、
親父って、こんな人やったんやな……
僕は親父の人生を知った想いだった。
僕を先頭に育ち盛りの4人の子供とおばあちゃんを残して、親父は逝ってしまった。オフクロは経済的にも苦労したはずだ。でも、「お父ちゃんがいなくなってえらいこっちゃ、寝ずに考えようと思っていても、すぐ寝てしまうんや」なんて、オフクロは笑っていた。
親父が死んで渡辺病院がなくなったあと、オフクロは看護学校の先生になった。50歳を過ぎてからは、京都の亀岡にある重度知的障害者施設の看護婦長として、ずっと勤めていた。
「もう、辞めたらええやないか、山城新伍もけっこう稼ぐんやから、年寄りを働かせて、かっこう悪いやんか」
「何いうとるの、あんた?これまでさんざん私に面倒を見させておいて、自分がええかっこうできるようになったら、仕事を辞めろだなんて」
オフクロに、強い口調で怒られた思い出がある。
「障害を持った子供たちのつぶらな瞳で、ジッと見つめられると辞めることなんかできないよ」と、オフクロにしんみり言われたこともあった。
親父の徳に生かされた自分
今年2月に京都の南座で芝居をやることが決まり、昨年はその芝居の根回しのため、久しぶりに京都に長期滞在した。その時、親父のかつての患者さんとか、親父に世話になった人たちとか、親父に縁のあるいろんな人と話をする機会があった。
「この傷、親父さんに治してもらった手術のあとですよ」と、親父の“作品”を見せられたこともあった。
親父さ、なんだよ、あんなに早く逝っちゃって、俺たちに寂しい思いをさせてさ。
親父が早く逝ちゃったことに、恨みがましい気持もあったよ。でも、没後45年。親父を慕う人がまだこんなにいる。
親父の徳──、好き勝手やって生きてきた僕だが、振り返ると目に見えない親父の徳に守られて、今までやってこれた、生きてこれた気がしている。
オフクロは85歳になった。ただ、目出たい。
僕は小さい頃から、どこかクールな部分があった。だが、娘は僕以上に冷め切ったクールなところがある。娘はどんな人生を歩むのか……。
僕としては、もう少し自分の弱味を見せてくれる娘であってほしい、そんな思いを抱いているが。
(ビッグコミックオリジナル 1997年9月5日号掲載)
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