私の実際の体験と重なるシーンがある。
内陸部に住んでいた主人公が震災発生日の夜、携帯電話の画面で「荒浜に三百人の遺体が打ち上げられた」が伝えられたこと。作品では「その時初めて、海に近い場所に住む友人たちの顔が浮かび上がり、闇の中に別の不安と恐怖が滲んで残像になった」と記す。
子供の頃に自分が慣れ親しんだ仙台市内の海水浴場に、遺体が打ち上げられるという情報は、当時東京にいた私の携帯電話の画面にも飛び込んできた。
その衝撃から、私の戸惑いは始まったかもしれない。
この小説が描いた被災地とそれ以外を結ぶ言葉は絶望でしかない雰囲気の中で「それは私の意識を逆なでし、目を閉じても開けても広がる深い暗闇に、幾つもの崩れた顔のように浮かび上がった」という。
この感覚に親近感を抱きつつ、その顔が何か私はいまだに分からない。
しかし、結果的に私はそのあまりにも強いインパクトのある文字列を目にし、被災地に向かったのだと思う。
現実と言葉の乖離に戸惑う、などと言いながら私のほうは、何とか被災地を表現し風化を防がないといけないという思いから歌曲『気仙沼線』『サンマ漁』を発表した。
情報を伝える言葉を凝縮させ、必要な文言を音に乗せて広く長く伝わればとの発想ではあったが、この小説を読んだ後は、その行動が正しいのかどうかも心もとない。
小説には、ゲッティンゲンの街並みや夏目漱石、寺田寅彦、太陽系の惑星の話など随所にモチーフが盛り込まれ、それが仕掛けになっている面白さもあるが、それは静かに世の中がいろいろな言葉でつながっていることを暗示していて面白い。
一見無関係なものもつながる可能性に人生は満ち溢れているのだと、楽観的な私はそう捉え、言葉の深さを意識し、そして被災地をめぐってここから何をしようかと考えさせられる。
凛とした小説だ。
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