「百姓を殺してどうする?誰が米を作り畑を耕すんだ。百姓は堂々としていればいい」
旧制中学に入ると、太平洋戦争が激しくなり、勉強どころじゃなくなっていった。
当時は本土決戦は必ず来ると、教師から思い込まされていた。沖縄の中学生は玉砕したとも聞かされていた。
どうせ死ぬんだ…、そう思っていたから僕は家にあった日本刀で裏庭の竹を毎日、ためし切りしていた。
昭和20年8月15日の玉音放送の翌日、親父は村長だったから、敗戦の噂を聞き知った村の連中が、親父の考えを聞きたくて我が家に集まってきた。
「戦争に負けたって。こらあ、いったい、日本はどうなるんだ、オレたちはどうなる?!」
どうなるんだと村の衆に訊かれても、答えようがなかったろうけど、みんなの前で親父はこういっていたわな。
「戦国時代だって、いくさに負けて百姓を殺した例はない。百姓を殺したらどうする? 誰が米作ったり、食い物を作ったりするんだ。だから百姓は堂々としてればいい。田んぼを畑をちゃんと守っていればいいんだ」と。
それでも敗戦を知った村の衆は帰らない。そのうち夜になったら、それまで黙っていたオフクロがいきなり大きな声を上げた。
「みなさん、国が戦争に負けても、ご飯は食べなきゃならない、そろそろお帰り下さい」物がひっ迫していた当時、夕飯時は家に帰るのが常識だったとはいえ、戦争に負けて大変な時にメシの心配なんかして。女ってのはいったい何を考えてんだろうと、思ったもんだけど。
振り返ってみると、オフクロはあんな状態でも、家族にメシを食わせるという自分の役割を遂行したわけで、そこには生きていくぞという力強さがあった。
映画がヒット しても「作物の方が いいぞ」と言い続けた親父。
なにせ「最後の一兵まで戦え!」と大人に言われて、本土決戦の時は一人ぐらい敵をぶった切ろうと本気で練習をしたのだから、戦争に負けてから日がたつにつれ、拍子抜けした。それまで「死ね!」と言っていた教師たちに、「とにかく深作、これからの時代は勉強だ、勉強しろ!」といわれても、今さら何言ってんだと。
食い物のない時代だったから、家の土地で農作物を作ればいい、百姓になればいいと僕は思っていた。そのうちに水戸市内の盛り場にも次々と闇市ができて、バラックの映画館ができたんだ。
初めて見た映画が『春の序曲』というアメリカ映画だった。エレベーターの中で男と女がキスをする、これだけでたまげたね。当時は中学3年だった。田舎の中学生で戦争に負けるまで、外国映画を一度も見たことがなかったのだから。親父の財布から金をちょろまかしちゃ、学校を抜け出して映画館に入りびたった。
「上の学校、どうするんだ、農業の専門学校でも行くつもりか」と、親父に言われ、
「オレは映画の勉強をしたい」そう言ったら、親父は訳がわからずにキョトンとしてた。
「映画の勉強って何だ? 監督って何をやるんだ?」
そう聞かれても僕自身、わからなかった。
映画監督の勉強をするとか言って上京したが、極道息子の言うことなんか親父もオフクロも本気にしていなかったろう。どうせ諦めて田舎に戻ってくると、思っていたんじゃないか。
大学を出て東映に入って助監督から監督になっても、
「早く戻ってこい」親父はそれしか言わなかったな。そのうちに『仁義なき戦い』がヒットした。
「欣二、新聞を見ていると、ヤクザは流血事件ばかり起こしている。そんなヤクザの映画を撮ってどうするんだ?」
「親父さんさ、ヤクザもね、それなりに大変な人生を送っているんだよ」実家に戻った時に、そんな話をした覚えがある。オフクロには、
「子供の頃は優しい子だったのに、どうしてそんなおっかない映画ばかり撮るようになったんだ」なんて、言われた。
「もういいだろ、田舎に戻って農業をやれ」
「こう見えてオレも案外、頼りにされているんでね」
確か、親父とそんな話をしている時だった。
「欣二さ、農作物は手をかければかけるほど、応えてくれるものだ。だけど、映画はそういうわけにもいくまい」というようなことを言われた。だから、
「百姓のほうがいいぞ」親父はそういいたかったんだろうけど。
そこは大地に根付いた百姓と、表現というわけのわからない浮世商売との違いだ。だが、浮世商売でも物を作るということでは、親父の仕事とつながっていると、話の中でそんな実感を持ったものだ。
『軍旗はためく下で』という作品で、外国の映画賞をもらった時も、親父には報告しなかった。すると、オフクロが新聞を見て知ったんだろうな、電話口で怒りだした。
「どれだけ心配しているか、お前はわからないのか! 一度、賞状を持ってきて見せに来い!」オフクロは賞状と言っていた。
「眼になったらな、時間ができたら一度、水戸に戻るから」と言っているうちに、昭和49年に93歳で親父が亡くなった時も、その翌年オフクロが逝った時も、僕は京都で撮影に追われていて、親の死に目には会えなかった。
息子はどういうわけか、僕と同じ映像の道を選んだ。これから先、この世界に運が向いてくるとはあまり思えないが…、まあ好きなことをやるしかしょうがないな。これまで話してきたように僕がそうだったわけだから。
(ビッグコミックオリジナル1995年12月20日号掲載)
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