深作欣二監督が『仁義なき戦い』ヒット後に父から「田舎に戻れ」と言われた理由

shutterstock_169841855
 

1973年に公開され、日本中で大ヒットを記録した映画『仁義なき戦い』。今もあのテーマ曲が脳裏に焼き付いていますが、あの『仁義なき戦い』シリーズを監督した深作欣二監督(2003年他界)は、どんな幼少期を過ごし、どんな両親に育てられたのでしょうか? 今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、物心ついた頃から15歳までを戦時下で過ごした深作監督が自らの言葉で語る、稀代の名監督を生み出した両親とのエピソードを紹介しています。

昭和のスター、有名文化人たちが自分の親について語った貴重なエピソードが満載のメルマガ詳細はコチラ

 

『仁義なき戦い』深作欣二監督「木が樹液を流しケガしている。木に謝れ!戦時中の親父の言葉だ。「命は大切にしろ」と言いたかったのか」

73年から公開された「仁義なき戦い』シリーズが、私の日常の会話が広島の呉弁になるぐらい、強烈なインパクトだったことは前回の松方弘樹の時に触れた。長いインタビュー人生ではあるが、私が最初に著名入りで人物ノンフィクションを描いたのは深作欣二だった。「蒲田行進曲」の公開から間がない27歳の時だった。京都の監督の定宿でのインタビューだった。深作監督はヒットに恵まれない下積み時代が長かった。「今に見ていろ、コノヤローとか、成り上がってやるぜとか思えるのは優れたヤツだ。俺はヒット作を撮れないダメな監督だと思っていたよ」「俺はヤクザの親分の気持ちはわからん。でもな、チンピラの気持ちは痛いほどわかるんだ」そんな深作監督の言葉は、人物クローズアップを担うものとして、今も大きな指針の一つになっている。(根岸康雄)

子守歌がわりに家康の家訓を聞いて育った

実家は水戸市の郊外で、まあ地主の家だ。オフクロは士族の家から嫁に来ていたから、代々の士族の教えがしみついていたんだろう。水戸藩は徳川の御三家の一つだから、子守歌のように心に残っているのは折にふれ、オフクロから聞かされた徳川家康の家訓というやつだった。特に今も心に残るのは、

『人生の禍福は、あざなえる縄のごとし』という言葉だ。

不幸を嘆いていると、いつの間にか幸福となり、幸福を喜んでいると、また不幸になる、不幸と幸福は、より合わせた縄のように交互にやってくる、確かオフクロにはそう教えられた。

物心付く頃から本はよく読んでいた。地元の旧家で書庫もあったし、僕は上から数えて五番目だから、兄貴や姉のお下がりの小説本もあった。

「本ばかり読んでいるからお前は痩せていて、外に出て遊ばないとダメだ」と、オフクロにはよく言われていた。

外に出れば、近所のはなたれどもがいる。ヤツらのほうが木登りにしろ、魚を捕まえるのにしろ、僕よりうまい。僕が自慢できるのは学校の成績ぐらいで、戦前のあの時代、地主の家のせがれといえば、たいていは僕のようタイプだったんじゃないか。

逞しく育ってほしいという思いと同時に、人と仲良くできない人間はダメだというオフクロなりの考えがあったと思う。

「欣二、外で遊べ!!」家で本を読んでいると、オフクロに怒鳴られ外に放り出された。

近所の鼻たれどもも、木登りやウナギ捕りや、スイカや梨をかっぱらったり、一緒に遊んでくれた。だんだんみんなとの遊び方を覚えてくると、やっぱり外の遊びのほうが楽しい。

でもね、あの時代、鼻たれどもはみんな小作人の家の子供だ。子供たちの中でも地主の息子の僕だけ、どこか特別扱いされてしまう。そんな雰囲気を感じることが子供心にイヤだった。少年小説の中に出てくる小金持ちのこせがれは、金や特権意識を使って仲間に嫌がらせをするとか、威張り散らすとかロクなもんじゃなかった。

オレもはなたれガキと同じになりたい。子供の頃の僕の一番の望みは、近所のガキどもと垣根のない、本当の仲間になりたかったということだった。

映画監督になってからも、僕は決して威厳をもって上から教えるという指導者型の監督ではない。スタッフや俳優と一緒になって遊びのような感覚の中で、映画を作り上げていく。これも、子供の頃、近所のはなたれガキどもの中に溶け込み、やつらと本当の仲間でいたいという切実な思いが、僕の出発点になっていたからだと思う。

昭和のスター、有名文化人たちが自分の親について語った貴重なエピソードが満載のメルマガ詳細はコチラ

 

print
いま読まれてます

  • 深作欣二監督が『仁義なき戦い』ヒット後に父から「田舎に戻れ」と言われた理由
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け