駅弁につまった日台の歴史。「台湾のコシヒカリ」を作った日本人

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かつて統治していた台湾で、ダムや水道、鉄道などを整備すべく力を尽くした日本。同じ時期に持ち込んだ「駅弁文化」も台湾に根付き、独自の進化を遂げていることをご存知でしょうか。今回のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』では台湾出身の評論家・黄文雄さんが、台湾の駅弁事情と、弁当に欠かせぬ台湾産の「蓬莱米」が日本人の努力により生み出されたという史実を紹介しています。

※本記事は有料メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』2022年2月16日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール:黄文雄こう・ぶんゆう
1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』(徳間書店)など多数。

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【台湾】日本が台湾に残した弁当文化の素晴らしさ

錦糸町から消える「台湾鉄道弁当」 「劉の店」1月末に閉店 店主の劉俊茂さん

東京で味わえる台湾の味が、ひとつ消えました。ただ、店主の味は名古屋の店に引き継がれたとのことです。「劉の店」で販売されていた台湾鉄道弁当は、台湾でも最もベーシックなスタイルで、台湾人にとっても懐かしい味でした。私も台湾に帰るたびに駅弁を食べていました。先にショウガを食べて口の中をスッキリさせてからご飯を食べるのが通の食べ方です。

今でこそ台湾でも様々な駅弁が登場しており、日本と同じく台湾でも駅弁は旅を彩る重要な要素となっています。報道によれば、台湾鉄道の弁当販売個数は年間1,000万個だそうです

台鉄駅弁フェア、12もの推薦弁当新登場

台湾では弁当のことを「飯包」とも言いますが、多くの人は「弁当」と言います。駅弁は日本時代に日本人がもたらしたものだからです。そして、駅弁と深い関係にあるのが米です。台湾の弁当の主役とも言うべき米は、台湾東部の池上という穀倉地帯で獲れる「池上米」。台湾のコシヒカリとも言われ、日本のコメのようにもちもちとしたいわゆる「蓬莱米」です。

そして、「蓬莱米」の生みの親は、かつて台湾総督府農事試験場で活躍していた磯永吉、末永仁の二人です。日本領台当初の台湾の米作付面積は、約20万余甲(1甲=2,934坪)で、収穫量は150万石(1石=150キロ)に過ぎませんでした。1899年になると作付面積36万余甲、収穫量250余万石となり、1904年には収穫量415万9,000石と増加しています。

34年の作付面積は68万7,600甲、収穫量は908万8,000石となっています。これほど収穫量が増える前は、人口増による米不足が発生し、輸入に頼らざるをえない状況でした。たとえば、1888年に中国から輸入した米は4万6,800担(1担=60キロ)、90年は3万7,000担でした。

日本領台初期、台湾の米作の単位面積における収穫量は、当時の日本と比べると極めて少なく、当時の日本は1町歩(=3,000坪)あたり平均17余石の収穫がありました。しかし、台湾では年に二毛作や三毛作ができるといっても、1899年の数字を見ると、1甲当たりの収穫量の平均は5.688石で、日本の約3分の1に過ぎません。

この状況を改善するため、台湾総督府が行った品種の改良、施肥の普及、灌漑の完備、土地の改良などにより、台湾の米収穫量は年々増していきました。磯永吉と末永仁の試行錯誤を重ねた努力の結果、生まれたのが台湾産の蓬莱米でした。

そして、1910年前後から台湾米の輸出量は、台湾輸出品の第2位を占めるまで増えたのです。その10年後には、台湾の総輸出額の20%も占めるようになり、米と砂糖は戦後60年代まで台湾の二大輸出産品として最重要産業へと成長したのです。

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