プロレス若手三羽烏の一人「大木金太郎」が語ったアントニオ猪木への思い

 

大木氏は戦後、韓国から日本に密航し、国会議員の口利きにより日本プロレスに入門し、1959年にデビュー。

翌年にアントニオ猪木とジャイアント馬場がデビューしており、当時この3人は「若手三羽烏」と呼ばれた。

三羽烏のうち馬場と猪木は2大ヒーローとして並び立ち、大木氏は日本では2人の陰になり脇役に押しやられたが、韓国では金一(キム・イル)として国家的なヒーローになった。

大木氏の得意技だった頭突きは、韓国では「金一先生」の代名詞でもある。

韓国のヒーローは現在、国家への多大な貢献を認められ国立大田顕忠院・国家社会貢献者墓域に埋葬されている。

日本での陰の存在のイメージは馬場氏や猪木氏との抗争という設定により印象付けられたようであるが、

大木氏の猪木氏を語る言葉はどこまでも温かかった。

「猪木はね、何も言わなくても分かってくれたね」

2006年10月26日昼に大木氏が亡くなったとの知らせが大木氏の家族から私に連絡があった時、私はソウル市内にいるのにも関わらず、取り入った仕事中ですぐに駆け付けることができなかった。

そうこうするうちに日本から駆け付けてきたのが猪木氏だった。

そのスピードは訃報を聞いた瞬間に飛行機に飛び乗ったようで、猪木氏が弔問に訪れた様子は韓国メディアも報じた。

このニュースに喜んだ韓国人の声を聞き、実は韓国には猪木ファンが多い、と私は実感している。

「燃える闘魂」の代名詞を語り、猪木氏の必殺技を語れる熱狂的なファンもいる。

もちろん、北朝鮮でプロレス興行を主催した話でも知られた存在ではあるが、文化開放政策で日本のテレビ番組が見られるようになったのは1998年であるが、それ以前から韓国では猪木氏の存在は地下で広がっていた。

さらに韓国のヒーローが長年猪木氏と心の親交を保ち続けていたことは、やはり猪木氏というボーダレスの存在だからこそだと思いたくなる。

ヒーロー、アントニオ猪木氏の存在は死してもまだ元気を与え続けるのだろう。
猪木氏のご冥福をお祈りしたい。

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image by: Uri Tours (uritours.com), CC BY-SA 2.0  via Wikimedia Commons

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