プロレス若手三羽烏の一人「大木金太郎」が語ったアントニオ猪木への思い

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『燃える闘魂』として日本プロレス界だけでなく、政治の道にも進みエネルギーを発し続けたアントニオ猪木氏の訃報は日本中を悲しませました。そして、彼の思い出はお隣韓国のヒーローの口からも語られるほどです。メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』著者の引地達也さんは、韓国のヒーローであるとあるプロレスラーが語った猪木氏の思い出を紹介しています。

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海峡を越えた「燃える闘魂」、ヒーローが懐かしんだ日々

元プロレスラー、アントニオ猪木氏が亡くなった。

プロレスがゴールデンタイムでテレビ放映され、特に成長期の男子や男性に強烈な印象を与えた時間は、それぞれが死して感じるその「猪木への思い」に受け継がれ、そのインパクトの強さは歴史上の人物級であろう。

プロレスラー引退後も国会議員や平和活動家としてエネルギーを発し続け、イラクにも北朝鮮にもわたるボーダレスな存在でもあった。

それらの生き様はメッセージ化され、ファンはその猪木氏のメッセージを勇気の素として受け止めた。

最期は難病と闘う姿をさらけ出し、その死に様までをも、猪木氏はメッセージ化し、去っていった。

死に様から考えると、リング上の姿は単なる助走にしか見えなくなるほど、車椅子に乗った姿は「元気」だった、ような気がする。

車椅子の姿を映像で見ながら、私はあるプロレスラーが語った若き日の無邪気なアントニオ猪木の話を思い出した。

そのレスラーは日本と韓国で活躍した大木金太郎氏(本名・金一)である。

2006年にソウル市内の病院で死去した大木氏は晩年、長期の入院で病院暮らしであったが、韓国プロレスの興行の際には車椅子に乗って会場を訪れていた。

当時、共同通信ソウル支局の記者だった私は大木氏が暮らすソウル市内の病院をよく訪れ、昔話を聞き入った。

韓国プロレスの地方巡業の際には大木氏に帯同してレスラーとともに寝食を共にした。

その際によく聞いたのは、若い日のよき思い出。

猪木氏との日々だった。

「猪木とは面白かったねえ」

そういって2人でのいたずらや失敗談を笑顔を絶やさずに話していた。

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