お笑いやバラエティ番組との比較
よく「いじり」はバラエティ番組やお笑い芸人さんなどで使われるが、これを同様に一般比較とするのは、「私リテラシーゼロです」と宣言しているに近い愚行なのだ。
そもそも、お笑いなどを本職にしているいわゆる芸人さんという人たちは、プロ野球で活躍するような、高度な技術や技法をもったプロフェッショナルなのだ。
例えば、プロ野球選手は、少年野球から始まり学生の高校野球など各大会などで全国から集められた野球エリートの中で実績を残して、プロの選手になっていく。全国で何万人何十万人という大勢の中から毎年一握りの選手しかなることができないエリート中のエリートだと言える。
お笑いについても同様だろう。
こうしたプロがプロ同士で行う行為は一般のそれとはレベルも領域も異なる異次元のものだ。
さらにテレビなどでは、進行のための台本もあれば、作家がいたり、番組制作側の指示もあるし、演出もいるわけだし、編集するのがほとんどだから、その編集によっても受け取り方は変わるわけだ。
また、視聴率に左右される世界でもあるから、より過激に演出されたり、話題のために大げさに喧伝されることもある。
つまり、申入れや打診と承認、承諾の関係が成立していることが多く、これがされていなければ、大事になるし、演者側の負担は計り知れないものになる。
そもそも現在はSNSによる距離の近さや誹謗中傷などが容易に起きてしまうわけだから、組織的な配慮は当然のことながら、様々な配慮が必要だろうが、多くの場合は、一定の管理下で行われていると考えるが善意の視聴者側のリテラシーとも言えよう。
「いじり」と「いじめ」の比較は加害者の論理
数年前におきた「いじめ」と「いじり」の比較論は、その当時、私も不意打ちのように巻き込まれた。その当時は、漠然と異なるものだという認識を持ちながらも、すでに理論武装して挑んでくる評論家に押されることもあった。
ただ、現在では、論じるまでもない愚行であると断じることができる。
その上で、これは私見に過ぎないが、この議題は加害者側、加害行為を経験上強く有していたり、その傾向が強い人物らが仕掛けた加害者脳による自己正当論だと考えている。
言葉の響きが似ていて、意味も近いと誤認しやすい言葉や行為を取り上げて、「いじり」は「いじめ」ではないと言わせようとしたり、いじめ行為を正当化しようと楔を打ったと思うのだ。
ゆえに、私はこの議論自体が「加害者脳」「加害者の論理」だと考えている。
こうした議論が例えば討論会の議題に出されたり、何らかの取材のテーマになることは、未だにあるが、それ自体が加害者に免罪符を与えてくださいという意図があれば、もはや論ずるまでもなく、そうした行為が、加害者に反省の機会を放棄させ、成長を阻害する害悪に過ぎないといえよう。
また、これを加害者脳の持ち主が自己の過去や現在の傾向に免罪符を与えるために行っているのであれば、大人の保身によって加害者すらもその犠牲者になっている典型的な愚行であると言える。
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