お笑い番組の芸人と素人の“いじり”を同一視する愚かな「いじめ加害者」たち

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いじめ加害者の口からしばしば聞かれる、「いじめではなくいじりのつもりだった」という言葉。ある時期、「いじり」と「いじめ」の比較論が盛んに語られましたが、そもそも両者は並べて論じられるべきものなのでしょうか。今回のメルマガ『伝説の探偵』では、現役探偵で「いじめSOS 特定非営利活動法人ユース・ガーディアン」の代表も務める阿部泰尚(あべ・ひろたか)さんが、「いじり」はいじめと比較されるべき行為ではないとして、その明快な理由を紹介。さらに芸能人と一般人の「いじり」を同一視する行為については、「愚行」という厳しい言葉で批判しています。

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「いじり」と「いじめ」は違うのかという議論。お笑いやバラエティ番組との比較

辞書を引けば、「いじり」とは、「弄り」とも記載され、「いじる」の名詞化、いじること「車いじり」「庭いじり」。「他人をもてあそんだり、困らせること」と書かれていることが多い。

いじめは、いじめ防止対策推進法にその定義があり、簡素化すれば、「一定の関係性」があって「何らかの行為」があって「当該児童生徒が心身の苦痛」を感じたら「いじめ」が成立する。

確かに、言葉の響きやその意味は似通っているように思えるかもしれないが、これは全く異なるものだ。

専門家の多くが、「いじめ」と比較するものではないという最も簡単な理由

そもそも「いじめ」は、その判断を行為を受けた側がするものである。だから、仮に加害者側が正当そうな理由を並べて、事故の行為をいじめではないと否定したとしても、いじめ防止対策推進法第2条のいじめの定義で読み解けば、何らの否定の要素にもならず議論の余地もない。

なぜならば、被害側が「それら行為によって心身の苦痛を感じた」か否かがその判断基準となるからだ。

よって、いじめとは、その主体が「受けた側」になる。

つまり、厳密に言えば、その行為者が仮に「いじり」を主張し、その場では受けた側もそれを黙認してその場のノリに合わせてお道化ていたとしても、受けた側が、真実として、心が傷ついたと感じたり、自らの尊厳を侵害されたと感じるなどしていれば、それら行為は「いじめ」に当たるわけだ。

こうなると、「いじり」というのは行為の1つであって、それらはいじめの中でよく起こる「無視や仲間外れ」「暴力行為」などと並ぶことになるであろうから、比較対象とはならないと考えられるわけだ。

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