約800年前の平安末期と鎌倉初期は災難の連続であった。『方丈記』を読み返せば、それが単なる随筆ではなく、詳細な災害報道であり、冷徹な社会評論であり、時代を超越して訴えてくる普遍的な文学作品だと理解できる。
とりわけ前半部分の災害の記述は、現代の直面している事象と重なることが少なくない。昨今、多くの識者が『方丈記』を薦めているのはそんな理由からかもしれない。推薦者のひとり、解剖学者の養老孟司さんは『漫画方丈記』の解説でこう書いている。
『方丈記』は日本の古典の中で、皆さんにいちばん読んでもらいたい本である。なにより全体がごく短い。原稿用紙にして25枚と聞いたことがある。ごく短い文章の中に、現在実際に起こったとしたら、とてつもない大事件になるようなことが、次々に淡々と描かれている。都の火災、養和の飢饉、大震災など、政治的な背景は源平の合戦、福原への遷都、京への帰還など、それぞれを描いても長編文学になって不思議はない。短い生涯の間に、こうしたことすべてを身近に経験してきた鴨長明の晩年の思い出話がこの『方丈記』である。鴨長明が生きた時代は、日本のすべての転換期だった。私はそう思う。
(『漫画方丈記 日本最古の災害文学』文響社)
果たして『方丈記』を現代に照らすとどうなるのか?
東日本大震災での巨大津波、東京電力福島第一原子力発電所での放射性物質事故、コロナウィルスによる世界的パンデミック、安倍晋三元首相の殺害、ワクチン薬害問題、ウクライナ戦争による安全保障危機など、現代日本は、鴨長明の生きた時代と同じような災難に直面している。
800年前、鴨長明の生きた時代の大災難(大火事、台風、悪政、大飢饉、大地震)は、貴族政治を崩壊させ、その後長く続くことになる武士の世を招いた。
果たして、現代のわたしたちにも同じような運命が待っているのだろうか?
実は、『方丈記』に記されているのは、災害の記録や転換期への警告だけではない。いや、むしろそんなことは書かれていない。後半部分、とくに結びについては、個人としての生き方と自らのダメさ加減についての正直な告白が続くのである。前代未聞の随筆である。
『枕草子』も『徒然草』ももっとかっこいいではないか。それが『方丈記』になるとこの調子なのだ。社会でなにが起きようとも、鴨長明個人としていかに考え、生きるべきかを説いている。いや説いているというよりも自虐的に愚痴っているだけかもしれない(笑)。だが、それでも一級の哲学書になっているのが驚く。
そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ
(現代語訳/佐藤春夫 さて私の一生ももう余命幾何もなくして死出の旅路に出なくてはならないのであるが、もう現在では何も今更に嘆くことも、悲しむ事もないのである。仏様の御教みおしえは何事に対しても執着心を持つなとあるのだが、今こうして心静かに楽しく住み得るこの山の中の草庵を愛することさえ一つの執着心の現れで罪悪なのである。私は仏様の世界から見れば何等価値のない楽しみをごたごたと並べ立てて無駄な時を過したものである)
800年前のしくじりジャーナリスト鴨長明、いまこそ読むべきなのである。
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