「忖度」が「媚びへつらい」になる違和感
「とか」という言い回しについて、僕はこれを「とか弁」と呼んでいました。だから、こうしたことばに目くじらを立てる必要がないのかもしれません。
ただことばの意味を意識することなく、いつも身を守る薄い衣をまとっていると、相手を忖度し自己防衛する言語が「日常のあるべき姿」になって、正しく主張したり反論したりすることができなくなるのではないか、という心配が頭をもたげます。
相手を傷つけず、自分も傷つかないようにするため、NOと言えない、あるいは言わない。それだけでなく、YESも言えないし、言わない。だからディベートが成立しない。そのくせいったん、意見をぶつけると相手の言うことを理解できず、理解しようともしない。とことん潰しにかかってしまったり、意味のないことばを重ねてごまかしたりする。「忖度」ということばを「媚びへつらい」の意味に変えてしまうような居心地の悪さが垣間見えるからです。
希薄になる言論 の先にあるもの
こうなると、民主主義の基本にある言論が薄まってしまう気がするのです。これでは世界に打って出ることもできないし、イノベーションも起こらない。僕はそんな気がしているのです。
タモリさんの考えは窺い知ることはできません。
しかし「とか」や「~なります」ということばに対して、言いようのない居心地の悪さを感じているのではないか。それが「俺怒っているわ」ということばになって出たのではないか。
そんなことを考えながらラジオを聴いていたのでした。
(メルマガ『前田安正の「マジ文アカデミー」』より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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