江戸城に存在した女性たちの居所である大奥。日本随一のハーレムともいえるこの場所では、多くの女性たちの戦いが行われてきました。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが「絵島生島事件」など大奥でのエピソードを詳しく紹介しています。
絵島生島事件
大奥のドラマが人気を呼んでいますね。
これまでにも手を変え、品を変え、大奥は様々な描かれ方がされてきました。大奥人気も手伝ってか江戸城見学ツアーも評判です。
意外にも江戸時代、つまり徳川幕府の本拠地として機能していた頃にも江戸城の見学は行われていました。ちなみに、拠城を庶民に開放して見学を許したのは織田信長の安土城が初めてとされています。
江戸城の場合、幕末になってからですがお金を払って通行手形を受け取れば、案内役に従って城内を見学できました。老中たちが苦しい財政の足しにしようとしたのかどうかはわかりませんが、お金を払えば将軍様の居城に庶民でも入ることができたのです。
しかも見学できたのは政治が行われている表向きの施設ばかりではありません。日本のハーレムである大奥の見学もできたそうです。
一般に大奥といえば、将軍以外の男は立ち入ることのできない女の世界、飼い猫も雌しかいないと言われていました。実際はどうだったかというと、老中などはよく訪れていましたし、大奥の事務を司った広敷役人も出入りしていました。
そうは言っても、金を払えば庶民までもが大奥を見学できたとは、幕府の衰微を思わせますね。
では、将軍は自由に出入りできたのかというと、出入りできない日もありました。歴代将軍の命日の前日です。身を清めて命日を迎えるためでした。ということは、代を重ねるごとに大奥に行ける日は少なくなります。後代の将軍ほど禁欲を強いられたことになったのですね。
そのせいでしょうか、性豪で知られる十一代家斉は側室とセックスする際には大きな声を上げ、獣のような激しさであったとか。お蔭で、万が一に備えて脇で眠る奥女中は寝不足であったそうです。
将軍と側室や将軍が目をつけた奥女中と夜伽をする際、監視役の女性がいました。寝物語で将軍に私的なおねだりをしないようにという用心です。
代が下り、最後の将軍十五代慶喜に至っては大奥に出入りしたのはただの一度だけでした。歴代将軍の命日が増えたからではありません。慶喜は京都で将軍宣下を受けたため、江戸城を留守にしていました。
たった一度の訪問は、和宮に鳥羽伏見の戦いに敗れたことの報告と朝廷への取り成しを頼むためでした。慶喜は大奥で側室を持つことができませんでしたが、静岡に隠居してから正室と二人の側室と暮らし、十男、十一女をもうけました。