ブレない脱原発。菅直人元首相が反対討論で「安倍晋三」の名を出した理由

2023.05.11
 

イデオロギーではない。菅直人が脱原発を曲げない理由

安倍氏の名前が出たせいか、議場が若干ざわめく。菅氏は構わず発言を続けた。

2011年3月の東京電力福島第一原発事故のとき、私は内閣総理大臣として、この国に暮らす人の命と財産を守る責任を持つ立場の人間でした。刻一刻と変化していく事故の状況の報告を受け、東日本壊滅、つまりは「日本壊滅」を覚悟致しました。

 

これは私だけではありません。現場の責任者である吉田(昌郎・東電福島第一原発)所長も、国の原子力行政を担う(内閣府)原子力委員会の近藤(駿介)委員長も「東日本壊滅」を覚悟したのであります。

これは誇張ではない。実際この当時、菅氏は原子力委員会の近藤委員長に、原発事故について「最悪のシナリオ」の策定を非公式に求めた。事故発生から2週間後の3月25日、近藤氏から首相官邸に届いた「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」という文書によれば、最悪の事態を仮定した場合「東京を含む原発から半径250キロ圏内が避難の対象になる」とされていた。

菅氏は続けた。

どんなに安全基準を厳しくしても、どんなに事故を起こさないように努力しても、地震国である日本で、この先何十年にもわたり、原発が地震や津波の被害に遭わない保証はありません。むしろ、地震に遭う確率のほうが高いのです。

 

飛行機事故、鉄道事故、高層ビルの大火災、石油コンビナート火災などの大災害と、原発事故とは根本的に異なります。それは、ひとたび大事故が起きたら、誰にも制御できなくなる、ということです。

 

私は、原発事故の恐怖を身をもって感じました。「日本壊滅」のイメージが頭から離れず、眠れない夜を過ごしました。だから、私は脱原発に舵を切ったのです。

菅氏にとって「脱原発」とは、もはやイデオロギーではなかった。国民の命を預かる首相として過酷事故に対峙しなければならなかった実体験からの、リアルな実感だった。

菅氏はさらに発言を続けた。

私の内閣のこの決断を、多くの国民は支持をしてくれました。当時は自民党も、脱原発には反対しなかったではないですか。

意外なようだが、これも事実だ。原発事故の翌年の2012年暮れ、衆院選で民主党は野党に転落し、安倍氏率いる自民党が政権を奪還する。その選挙における同党の公約には、原子力政策に関して「原子力に依存しなくても良い経済・社会構造の確立を目指します」「権限、人事、予算面で独立した規制委員会による専門的判断をいかなる事情よりも優先します」と書いてあった。

原発事故の記憶が生々しかった当時、こうした認識は与野党を超えて共通したものだったことがよく分かる。

菅氏の反対討論に戻る。

約2年間にわたって、原発による発電がゼロだった時期もありましたが、日本のどこにも大停電は起きませんでした。原発ゼロでもやっていけることは、すでに実証がされています。

 

東京電力福島第一原発事故を教訓に定められた原子力規制の柱である、重大事故対策の強化、バックフィット制度(最新の科学的知見で原発規制のハードルが引き上げられた場合、それを既存の原発にも義務付けること)、40年運転規制、そして規制と利用の厳格な分離について、これに変更を迫る立法事実は存在しません。これを堅持しなければなりません。

原発事故を踏まえ、菅政権はさまざまな原発の規制強化策を打ち出した。そもそも原子力規制庁の発足自体が、菅政権の実績だ。それを覆して「3.11以前」に戻すかのような動きに、当事者として耐え難い思いがにじんだ。

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