太平洋戦争の終戦から22年経った1967年、三島由紀夫は「タカ派」を宣言。大東亜戦争を肯定し、“ベ平連”こと「ベトナムに平和を!市民連合」のことを「バカな連中」と評しました。そのベ平連の反戦デモに加わっていたのが辛口評論家として知られる佐高信さん。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、「日々『三島的なるもの』と闘っている気がする」と述懐し、大岡昇平、東海林さだお、勝新太郎、加藤登紀子ら著名人の三島由紀夫評を紹介。容姿が似ている永六輔のことを「できの悪い弟」と言った三島に、痛烈なひと言を浴びせています。
三島由紀夫批判ふたたび
「ますます喜劇的になっていく」と三島を評したのは大岡昇平だった。三島が自決する前である。
中川右介に『昭和45年11月25日』(幻冬舎新書)という本がある。その日その時、誰がそれをどう受けとめたかをまとめたものである。自衛隊員に向かって三島がヤジった演説も載っている。彼は叫んだ。
「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ。
日本を守ること。
日本を守ることとは何だ。
日本を守ることとは、
天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ」
ヤジがとぶ中を三島は「天皇陛下、万歳」で結んだ。あれから53年である。
私は日々「三島的なるもの」と闘っている気がする。三島が死ぬ前年の1969年6月23日号で『平凡パンチ』は三島についての「広域きき込み捜査」をした。それがなかなかにおもしろい。
東海林さだおは語る。
「服装とか筋肉なんか見ていると、
なんとなく、コッケイな感じがしますね。
それにしても、三島さんがオジイサンになったら、
あの筋肉がどんなグアイにシナびるか、
それだけが興味がありますネ」
勝新太郎は
「ないものねだりをするヒト。
そしてその結果それをカクトクしてゆくヒト」
と。
一番激しいのは加藤登紀子である。
「理由もなくキライ。
顔もイヤ。とくに目がイヤだわ。
わたしが見つめていたい目じゃない。
肉体的な顕示欲がつよいのもキライ。
でも、わたしは22歳ぐらいまで、
三島さんの小説が好きだったんだけど、
だんだん耐えられなくなってきたわ」
1967年7月28日号の『平凡パンチ』で三島は「タカ派」宣言をした。
「ボクはいまでも大東亜戦争を肯定している人間だし、
アメリカのベトナム政策も支持しているよ。
だってそうだろう?
もしアメリカがベトナムで敗退したらどうなる。
あのインドシナが赤化の危機にさらされているように、
日本だって同様の危機にさらされるかもしれないじゃないか。
この暑いのに、べ平連のようなバカな連中と
やりあう気持ちはぜんぜんないんだから…」
そのころ私はべ平連の反戦デモに加わっていた。べ平連のリーダーだった小田実は「三島がそんなふうに言っているのなら、そんな三島のバカな発言にかかわりあっているヒマはない」と斬り捨てている。
45歳で亡くなった三島の8歳下の永六輔は三島と似ていて、「三島さん、サインして下さい」と声をかけられたりした。最初は否定していたが、面倒になって「三島由紀夫」とサインすることもあったという。
三島は永のことを「できの悪い弟」と言ったりしたが、私から見れば三島の方が「できの悪い兄」だった。
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