1963年4月、日本行きの飛行機に乗った。日本最高のラーメン会社や他のラーメン会社などを訪ね回ったがすべて断られた。落胆したヂョン・ジュンユンが藁をもつかむ思いで訪れたのが明星食品で、社長が奥井清澄だった。
奥井はヂョン・ジュンユンに「なぜラーメン事業をしようとするのか」と尋ねた。「クルクリ粥(いってみれば残飯粥でゴミのようなもの)を食べる同胞たちがこれ以上お腹が空かないように救いたい」。
奥井は返事もせず翌日また来るように言った。奥井のそばに二人が立っていた。製麺機メーカーの上田社長と揚げ釜メーカーの奥谷社長だった。その場で奥井は「あなたを全面的に助けます。技術料、ロイヤリティは必要ありません。機械代も実費のみいただきます。日本は韓国戦争で立ち上がりました。明星食品が直接その恩恵を受けたわけではありませんが、お返しいたします。明日からこの2人から技術を学びなさい。」
そうして10日間学んだ。しかし、スープの作り方だけは教えてくれなかった。明星の核心競争力だったため、もしかしたら他の業者に流れるのではないかと憂慮したためだ。
帰国の途に奥井社長の秘書が空港に密封した封筒を一つ持ってきた。封筒にはこのように書かれていた。
「小さなプレゼントを用意しました。スープ配合表です。これを知っている人は私以外に会社に何人もいません。日本と同じように韓国でもお腹が空いた人のための良い製品を作ってほしいです。」
三養ラーメンの発売価格は「クルクリ粥」5ウォンを基にして10ウォンだった。コーヒー35ウォン、タバコ25ウォンの時代、奥井社長が「安すぎる」と言うほどだった。ヂョン・ジュンユンは「肉体労働の日当が100ウォンだが、それさえも毎日仕事がない状況でこの価格は守らなければならない」と信じた。
2人が結んだ11項目の契約書の中で2項は、記者が見た「世界で最も美しい契約文句」だった。「甲(明星)は乙(サムヤン食品)に製造技術を無償で提供する。乙は甲の技術伝授に従う。衛生的価値を守るためだ。」
このようにして誕生した韓国ラーメンは、世界の食べ物の歴史を塗り替えている。今年に入って9月16日までに100か国余りに輸出した韓国ラーメンだけで6億5700万ドル(約9000億ウォン)分だ。前年比23.5%増加だ。
「人間百懷 千歳憂」 人は100歳を生きるが、1000年後を考えなければならないという全重潤(ヂョン・ジュンユン)の経営哲学だ。反目と狂気の時代といわれていた20世紀半ば、飢えとの戦いを繰り広げた2人の企業家を再び追悼する。(朝鮮日報参照)
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