数年前から世界中で大ブームを巻き起こし、今やスタンダードとして定着した感のある音楽ジャンル、シティ・ポップ。音楽業界では山下達郎と大貫妙子の在籍したバンド「シュガー・ベイブ」が“シティ・ポップの先駆け”ということが定説になっています。しかし、シュガー・ベイブとほぼ同時期に活動しながら、最近までその存在さえ知られていなかった幻のバンドが実在していました。その名は、「滝沢洋一とマジカル・シティー」。彼らこそが、昨今の世界的シティ・ポップブームの礎を築いた最も重要なバンドであることが、3年以上に及ぶ関係者たちへの取材によって明らかになりました。
本連載では、今まで日本のポップス史の中で一度も語られることのなかった、彼ら5人による「シティ・ポップの軌跡」を、発見された大量の未発表音源とともに複数回にわたって掲載してきました。今回の第3回が最終回となります。彼らの通った「道」が40年以上の時を経て世界にもたらした「奇跡の軌跡」を追いました。
連載記事アーカイヴ
● 【Vol.1】奇跡的に発見された大量のデモテープ
● 【Vol.2】デモテープに刻まれていた名曲の数々
● 【Vol.3】達郎も秀樹も気づかなかった「真実」(本記事)
アルバムのみに収録された「誰も知らない名曲」
2024年1月、山下達郎 のライヴツアーを終え、自身のバンド「Koki Tetragon」の活動で多忙のベーシスト・伊藤広規の事務所に宛てて一通のメッセージを送付した。
伊藤広規さんに追加で質問がございます。
本メッセージに添付いたしました音源について、伊藤広規さんにご確認いただくことは可能でしょうか。
この曲はシングルにはなっておらず、1984年に発売されたアルバムにしか収録されていない曲なのですが、滝沢洋一さん作曲、新川博さんアレンジです。
この曲のドラムとベースが青山純さんと伊藤広規さんによるものかどうかを調べております。
もし、青山・伊藤の“黄金リズム隊”であれば、滝沢洋一作曲、新川博アレンジ、青山・伊藤リズムということで、事実上の「マジカル・シティー再結集」の曲ということが確定いたします。
ちなみに、この曲が収録されたアルバムには参加ミュージシャンのクレジット自体がありませんでした。
わずか数時間後、上記メッセージへの返信が届いた。緊張しながら開いてみると、そこにはこう書かれていた。
「伊藤広規に確認してもらいました。この曲のドラムとベースは青山純、伊藤広規コンビに間違いありません」
……私は、何度も何度も同じ返信の文字を読み返していた。
シティ・ポップ“奇跡の一枚”『レオニズの彼方に』制作スタート
2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。
その滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」として、ミュージシャンのキャリアをスタートさせた以下の4人だが、その豪華な顔ぶれは今まで日本のポップス史の中で語られてこなかったことが不思議なくらいだ。
Magical City(マジカル・シティー)
ドラム:青山純
ベース:伊藤広規
キーボード:新川博
ギター:牧野元昭
そのマジカル・シティーから76年末に新川博が脱退し、赤い鳥から派生したコーラスグループ「ハイ・ファイ・セット」のバックバンド「ガルボジン」へ移籍した。新しいキーボードには、カシオペアの初期メンバーでのちにビクターでビートたけしや岩崎宏美の担当ディレクターとして活躍することになる小池秀彦を迎え、マジカルのメンバーは77年よりスタジオミュージシャンとして活動をはじめた。
そして同年秋、滝沢のソロアルバム『レオニズの彼方に』の制作が決定。プロデュースはアルファ・ミュージック入社2年目の社員粟野敏和と滝沢が共同でおこなうことになり、粟野がディレクターとしてはじめて担当するアルバムとなった。レオニズとは、毎年11月頃に出現する「しし座流星群」のことである。
当時、アルファは東芝EMIと「原盤供給契約」を結んでおり、年間で4〜5枚のアルバム制作を担うことになっていたという。契約時の制作元は、72年に設立された原盤制作会社「アルファ・アンド・アソシエイツ」名義だった。その年間5枚のうちの1枚として選ばれたのが、滝沢の『レオニズの彼方に』だったという。
粟野「77年当時、アソシエイツに所属するアーティストでアルバムを出せるだけの人は他にいなかったんですよ。滝沢さんには、ロビー和田さんがRCAから持ち込んだ音源と、私が音羽スタジオで録った音源と2種類のデモがあったので、これでいいんじゃないか、これを作り込む形でやろう、という話になりました」
新川が在籍していた当時のマジカルメンバーと滝沢による、あのデモ・テープ群(連載Vol.2参照)が『レオニズ』制作決定の“決め手”となったのだ。
粟野は当時まだディレクターとしてアルバム制作の経験はなかったが、すでに粟野の主導で録り溜めたマジカルとのデモがあったことで、アルファ社内では「だったら粟野にやらせればいい」という話になり、滝沢のソロアルバム制作が決まったという。
実はこの年、ハイ・ファイ・セットへ滝沢が提供した楽曲『メモランダム』が、シングルでスマッシュヒットを飛ばし、東芝EMIヒット賞を受賞している。
滝沢のソロアルバム制作が決まった背景には、このハイファイの『メモランダム』がヒットしたことも深く関係しているという。この曲を採用したアルファの名物ディレクター有賀恒夫は、のちに滝沢の作品をサーカス、ブレッド・アンド・バター、いしだあゆみ、大野方栄などのアルファ所属アーティストに採用することになる。
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佐藤博をアレンジに起用。幻の一曲「日よけ」で覚醒した“黄金リズム隊”
このアルバムのアレンジ担当として白羽の矢がたったのが、新進気鋭のキーボディストとして、山下達郎のアルバム『SPACY』(1977)や細野晴臣率いるスタジオミュージシャン集団「ティン・パン・アレイ」にも参加していた、故・佐藤博だった。佐藤は、細野からYMOへの参加を打診されたが米国進出を理由に断った人物としても知られている。佐藤のアレンジ起用は、アルファ社長の村井邦彦からの指名だったという。
佐藤は、黒澤久雄が参加した「ブロード・サイド」というバンドのアルバム『BIRTH~バース』(1977/ビクター)の中で、滝沢と初めての共同作業を経験している。このとき滝沢が作詞・作曲で提供したのは「星のテラス」というリリカルな一曲で、そのアレンジを佐藤が手がけた。『レオニズ』には、この「星のテラス」の滝沢セルフカバー・バージョンが収録される予定であった。
以下は、滝沢の自宅に保存されていた滝沢版の音源である(スマホの場合は、Listen in browser の文字をクリック、以下同)。
佐藤の起用が決まってからは、粟野が惚れこんだ名曲「最終バス」をはじめ、いくつかのデモがアルファの「スタジオ“A”」や「音羽スタジオ」などで録音された。粟野は当時、佐藤が住んでいた東横線・代官山駅近くの自宅に足繁く通い、滝沢のアルバムに関する打ち合わせを繰り返していたという。デモの録音が続く中、この時に「アルバム未収録」となった楽曲も多数録音されている。
その中で、マジカルメンバーの伊藤が最もお気に入りだったという、青山・牧野も参加したブルースナンバー「日よけ」は、イントロ・間奏ともに佐藤のアレンジ力の高さを伺わせる名曲だ。今となってはアルバム未収録であったことが惜しまれる。その音源も滝沢の自宅からオープンリールの形で発見された。
伊藤「よく覚えているのは、アルバムには入らなかったんだけど“日よけ”っていう曲があって、その曲が俺は一番好きだったんです。かなりカッコイイ曲で、たぶんデモを録っただけだったと思います」
45年も前にデモを録音しただけの一曲を、ここまで長きに渡って覚えていた伊藤にも驚くが、それほど印象深い名曲・名演だったということなのだろう。滝沢のソングライターとしての才能について、伊藤は「日よけ」や「最終バス」を引き合いに出しながら以下のように述べている。
伊藤「これまで散々いろいろな仕事をしてきているのに、これだけ強く印象に残るっていうのは、本当に凄い人なんだなって改めて思いました。今の時代に聴いても“いいなぁ”って思える曲を書く作曲家でしたね」
粟野は当時、この「日よけ」という楽曲を滝沢のアルバムに収録しなかったことを後悔していたという。
粟野「自分のメモに“この曲を収録しなかったのは自分のミスかもしれないと思うほどの佳曲だ”って書いてあったんですね。それくらい今聴いても良い曲だと思います。なんで“日よけ”を入れなかったのか、今さらながら滝沢さんに申し訳ないなと」
かつてのメンバー新川博に「軟弱だ」と責められていた青山のドラムは、志賀高原で伊藤とおこなった“リズム合宿”を経て、まるで別人のように成長していた。のちに、山下達郎のアルバム『RIDE ON TIME』や『FOR YOU』で披露される右手一本のハイハットやキック、印象的なスラップなど、あの“黄金リズム隊”の音がすでにここで完成していたのである。
青山家には、青山純が1977年当時につけていたスケジュール帳が遺されている。表紙に杉真理のデビューアルバム『Mari & Red Stripes』(1977/ビクター)のシールが貼られているのは、青山が当時、杉のバンドにもマジカルと並行して参加していたからである。同アルバムにも参加した青山は、竹内まりや、安部恭弘らとともに洋楽センス溢れるポップ・ナンバーを演奏している。
このスケジュール帳を開いて驚くのは、青山が滝沢のアルバム制作にあたって、かなり頻繁に『レオニズ』のデモテープ録音に参加していたということだ。例えば11月初旬のスケジュールを見てみよう。ほぼ毎日のように録音があり、1日あたり4時間から長い日には7時間もスタジオで録音していたことがわかる。これが同年10月初旬から12月末まで続き、さらに翌78年の初頭までおこなわれていたという。
まだ青山が売れっ子スタジオミュージシャンになる以前、滝沢やマジカルのメンバーとともに「自分たちの音楽」を作るために情熱を燃やしていたことが、このスケジュール帳の生き生きとした文字から垣間見えてくる。
青山は『レオニズ』のデモテープ録音で数多くの曲に参加していたが、彼のドラムが採用されたのは「ラスト・ストーリー」1曲のみだったという。上記「日よけ」をはじめ、滝沢宅にはアルバム未収録となった青山・伊藤・牧野らが参加する名演の音源が数多く残っている。
集められた豪華な参加ミュージシャン
『レオニズの彼方に』は、滝沢の連れてきたマジカルメンバー以外にも豪華なミュージシャンが多数起用された。その大半は佐藤がチョイスしたメンツだった。もともと自身がギターに手慣れていた粟野は「やるなら思いっ切りやれよ」というアルファの先輩・後藤順一からの声を汲む形で、とりわけギタリストの起用にはかなりこだわったという。その選定には佐藤も協力し、どの曲に誰のギターをという点に関して綿密な打ち合わせがおこなわれていた。
もちろんギタリストだけでなく、他の参加ミュージシャンのメンツを見ただけでも、どれほど贅沢なアルバムであったかがよくわかる。
エレキギター:
鈴木茂
杉本喜代志
松木恒秀
松原正樹
牧野元昭
鳥山雄司
アコースティックギター:
吉川忠英
12弦ギター:
杉本喜代志
ドラム:
青山純
林立夫
村上“ポンタ”秀一
ベース:
伊藤広規
高水健司
クラシック・ピアノ:
松岡直也
キーボード&全曲アレンジ:
佐藤博
アルトサックス:
ジェイク・H・コンセプション
村岡建
テナーサックス:
斎藤清
トランペット:
羽鳥幸次
数原晋
吉田憲司
トロンボーン:
新井英治
岡田澄雄
パーカッション:
浜口茂外也
ラリー寿永
ペッカー(橋田正人)
ストリングス:
玉野アンサンブル
二度と揃わぬ最強の布陣で臨んだレコーディングは翌78年春頃まで続き、アルファの本拠地である「スタジオ“A”」をはじめ、「音響ハウス」「サウンドシティ」「メディアスタジオ」の4スタジオで収録がおこなわれた。現在、このアルバムはSpotifyをはじめ、各種サブスクリプションで聴くことが可能だ。ここにはもちろん、20歳の青山純が23歳の伊藤広規と共演した「ラスト・ストーリー」も含まれている。
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『レオニズ』へ光を当てた金澤寿和の先見性
そのコンピは『Light Mellow Wave』という名前で2015年1月に発売された。主にアルファレコードが版権を持つ楽曲を中心にした、シティ・ポップのコンピだった。
このアルバムを企画し、滝沢の『レオニズ』へ光をあてたのが、シティ・ポップの名曲を独自の視点で選曲したガイド本「ライトメロウ」シリーズや復刻CDなどを企画・監修し、『レオニズ』の初CD化を実現させた音楽ライターの金澤寿和だ。
このコンピに「マリーナ・ハイウェイ」が収録されたことをきっかけに、『レオニズ』は同年7月に初CD化され、日本のタワーレコードとソニーミュージックショップのオンラインで限定発売されることになった。金澤はCD化までの苦労をこう振り返る。
金澤「『レオニズ』を紹介したのは、私が企画・監修したディスクガイド『ライトメロウ和モノ 669』(2004)の中で、“職人による知られざる奇跡の名盤その3”と銘打ったのが最初でした。“その1”と“その2”は比較的早くCD化できましたが、『レオニズ』は10年以上を費やしました。業界内の評価は高かったのに、それだけ無名だったんです。CD化が決まった時は感激しました」
こうして、滝沢の唯一作である『レオニズ』は現在、日本の音楽ファンの間で「隠れた名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されるようになり、オリジナルのLPレコードは数万円という高値で取引されるまでに至った。しかし、オリジナルのレコード発売当時はほとんど売れず、業界関係者でも存在を知っている人はほぼいなかったようだ。
もしも、金澤がこのアルバムを“発見”していなければ、滝沢やマジカルの歴史は今も「未知」のままであったに違いない。元祖シティ・ポップブーム火付け役である金澤が、日本のシティ・ポップの黎明期を知るための大きな手がかりとなるこのアルバムを発掘した意味は想像以上に大きい。
日本人による“せめてもの抵抗”として
そして、金澤がCD化を実現化させた数年後に海外の音楽好きたちが「耳」によって彼らの音を見つけ出すことになる。
YouTube上には、アメリカ人男性が滝沢の『レオニズ』の魅力について語る動画もアップされている。ほとんどの日本人が知らないアルバムさえも、耳の肥えた海外の音楽ファンによって、その価値が認められつつあるようだ。
シティ・ポップ関連の執筆を多く手がける音楽ライターの松永良平は、いま海外で起きているシティ・ポップブームによって、日本人も知らない音楽がどんどん発掘され続けていることに危機感を抱きつつ、そのような状況に対して発信者としての“せめてもの抵抗”として、滝沢の『レオニズの彼方に』などの隠れた名盤を広く世界に紹介することの大切さを、BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」CITY POPスペシャルの中で語った。
松永「つい最近も、Twitter(現X)で“2021年に海外の人がWantsしている日本のレコード”みたいなリストが、バーッといくつか出たんですけど、本当ビックリするぐらい良く聴いていて。メジャーなものから自主制作のものまで。
ちょっと敵わないって言うのかな。1億対70億とかそういう戦いになっているとしたら、実はもう敵わない状況に入り始めているんじゃないかなという気もしていて。
でも、その中で…たとえば、アルファで70年代に作曲家をやっていた滝沢洋一さん。『レオニズの彼方に』っていう、すごく良いアルバムで。アルファでようやく世界配信が開始されて聴くことができる。
そういうのを聴いて欲しいなという、発信する側のせめてもの抵抗っていうか、小さな抵抗を続けていくことがすごく大事なのかもしれないです」※BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」CITY POPスペシャル(2022年3月19日放送)より
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滝沢洋一が繋いだ音楽人脈
滝沢とマジカルの歴史を辿ることによって分かったことは、滝沢が多くの後輩ミュージシャンたちに慕われ、そして多くの人脈を繋ぐ役割を果たしていたということだ。新川が振り返る。
新川「この歳になって、当時のいろいろなことをみんながアーカイブし始めたことで、滝沢さんってあの時代を自分と同じように生きてきた人なんだなぁと改めて思いましたね。そして滝沢さんが、村井邦彦さん、ユーミンとかを自分に引き寄せてくれた人だったんだなって」
滝沢はソングライターとして存在感のある優れた楽曲を作り続け、その作品は40年以上の時代を経てもミュージシャン仲間たちの耳に残り続けている。滝沢サウンドの魅力が詰まった名盤『レオニズ』は、マジカルの仲間たちと過ごした時間や苦楽を共にした経験が折り重なって完成したのだ。
マジカル・シティーのメンバーらとソロアルバムを作り終えた滝沢洋一は、その前後からビートたけし、ブレッド&バター、サーカス、須藤薫、小泉今日子、松本伊代、岩崎宏美、西城秀樹、石川秀美、山下久美子、富田靖子、小室みつ子、伊東ゆかり、清野由美、いしだあゆみなど、多くの歌手やタレント、アイドルたちに楽曲を提供する「作曲家」として、活躍のフィールドを広げてゆくことになる。
近年、謎多き女性歌手AMYやCMソングの女王・大野方栄へ滝沢が提供した楽曲は「シティ・ポップの名曲」として再評価されている。
一方、新川博は移籍したハイ・ファイ・セットのバックバンド「ガルボジン」の縁で、ハイファイのアルバム『Coming Up』(1978)の全楽曲アレンジを担当したことから、プロの編曲家の道へと進んだ。
そして、近年シティ・ポップの名盤として高く評価されている菊池桃子をリードボーカルに擁したバンドRA MU(ラ・ムー)唯一のアルバム『THANKS GIVING』(1988/Vap)ほぼ全楽曲をはじめ、「君は1000%」など1986オメガトライブのほぼ全楽曲、原田知世「時をかける少女」、本田美奈子「1986年のマリリン」、小林麻美「雨音はショパンの調べ」、荻野目洋子「六本木純情派」、中原めいこ「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね」など、大ヒット歌謡曲のアレンジを数多く手掛けている。
さて、新生マジカルのメンバー(青山純、伊藤広規、牧野元昭、小池秀彦)4人は、滝沢の『レオニズ』で知り合った佐藤博とともに活動していく。伊藤がその経緯を語った。
伊藤「『レオニズ』の録音が終わった後、78年6月に佐藤さんの31歳の誕生日をお祝いしようって、みんなで<サーティーワン>のアイスクリームケーキを持って佐藤さんの自宅へ行きました。そのとき、佐藤さんから“長い付き合いをしたいんやけど”って言われて、マジカル・シティーはバンド丸ごと佐藤博さんに抱えられて、ギターの鳥山雄司とパーカッションのペッカー(橋田正人)も加えて“佐藤博とハイ・タイムス”が結成されたんです」
マジカルはバンド丸ごと佐藤の元に抱えられ、「佐藤博とハイ・タイムス」と形を変えて存続することになった。バンド名からマジカルは消え、事実上の解散状態となったが、メンバーは減るどころか2人も増え(ペッカー、鳥山雄司)、新たな人脈が繋がったのである。結局、ハイ・タイムスはアルバムを出すことなく自然解消するが、佐藤のソロアルバム『オリエント』(1979/Kitty)には伊藤や青山、小池、鳥山、ペッカーの名前を見ることができる。
たとえ個々の活動がバラバラになっても、目に見えぬ形でマジカルの縁は確実に繋がっていた。そして、その縁の輪が「シティ・ポップ」という形で結実するまでに、あまり時間を必要とはしなかった。
77年から79年にかけて有名アーティストのソロアルバムでそれぞれ名演を残したマジカルの「リズム隊」伊藤と青山は、ついに運命的な出会いを果たすことになる。79年夏にアルファ所属の吉田美奈子と、『レオニズ』録音メンバーだった村上“ポンタ”秀一の二人が、青山純と伊藤広規の二人をとある人物に引き合わせる。
それが、山下達郎だった。
山下達郎と“黄金リズム隊”奇跡の邂逅
伊藤「今は無き原宿のパレフランスという喫茶店で、吉田美奈子さんと村上“ポンタ”秀一からの紹介を受けて、青山純と二人で会いに行ったんです。
そこで達郎に“君たちは普段どんな音楽を聴いているの?”と聞かれたので、“俺はフランク・ザッパとラリー・グラハムと北島三郎かな”と言って驚かれた記憶がありますね(笑)。
ちょうど達郎の『MOONGLOW』(1979/Air)というアルバムのレコーディングの真っ最中で、その時に“スタジオに来る?”と言われて“行く、行く!”って青山と見学に行くことになりました。
当日、風邪を引いて鼻声だった青山と俺と吉田美奈子さんで“SUNSHINE –愛の金色–”という曲のコーラスで“ニャイニャイ!”という声だけ入れてきたんです」
山下に初めてドラムとベースの音を聴かせたのは、79年に六本木ピットインで行われた村上秀一のライブ「ポンタセッション」であった。伊藤が山下との音出しを回想する。
伊藤「ギターは松木恒秀、キーボードに坂本龍一、サックスは土岐英史、ボーカルに吉田美奈子、ボーカルとギターに山下達郎、ベースは俺、ドラムがポンタと青山のツインドラムでのセッションでした。このポンタセッションでのパフォーマンスで達郎が手応えを感じたそうです」
その後、翌年に出たアルバム『RIDE ON TIME』(1980/Air)のレコーディング時に、まずは一回一緒に音を出してみようということになり、赤坂のペイルグリーンというスタジオで青山と伊藤とギタリストの椎名和夫、キーボードの難波弘之の4リズムで音出しがおこなわれた。
伊藤「その時に“これも出来る、あれも出来る。君たち一体何者?”と驚かれて。それから青山と一緒に達郎のレコーディングに参加することになりました。達郎とは『RIDE ON TIME』から始まって、以来44年ずっと山下達郎バンドと、竹内まりやのバックでレコーディングもライブも参加するようになって今に至るという感じです」
昨今、世界的に評価の高い山下の『FOR YOU』(1982/Air)や、不朽の名曲「クリスマス・イブ」を収録した『Melodies』(1983/MOON)、シティ・ポップブームの火付け役となった竹内まりやの「プラスティック・ラブ」が収録された『VARIETY』(1984/MOON)も、伊藤・青山コンビの“黄金リズム隊”が参加していることは、もはやここで述べるまでもないだろう。
山下「僕の場合はリズム・パターンだけの日ってのがあって。『FOR YOU』は全部、リズム・パターンだけで作って、メロディーは後から考えたんです。(中略)“メロディーを作る日”ってのがあるんです。ある程度、形ができたマルチトラックをスタジオで流しながら『ラーラララー』とかやって、そこに歌詞つける」
さらに、音楽制作と音響のメディア「Sound&Recording」の2022年7月8日配信の辻太一氏によるインタビューで、山下は『FOR YOU』当時の「グルーヴの作り方」について以下のように証言した。
山下「僕はリズム・パターンから曲を発想するタイプで。例えば1980年代なんかはROLAND TR-808でパターンを組んで、それを元に作っていたし、青山(純/ds)や伊藤広規(b)とはストリングス・シンセの鍵盤をガムテで止めて、一定の音が鳴り続けるようにした上で演奏しながら作ったり(笑)。「LOVE TALKIN’(Honey It’s You)」(1982年)などは、そうやってできた曲です。いわゆるシンガー・ソングライターみたいにギター弾き語りから作り始める、というのではなく、ポリリズムが好きだったりするから、バラードを録っても“キックがどこに入るか”っていうのとかを緻密にやらないとダメなんです」
これらを総合すると、青山・伊藤そして山下の3人がスタジオ入りし、先にリズム・パターンだけを作ってから、それに合わせる形でメロディーと歌詞を作って完成したのが、あのシティ・ポップを代表する『FOR YOU』というアルバムだったということだ。
新川邸での運命の出会い、滝沢とのマジカル・シティー、そして「最終バス」によるアルファとの縁、『レオニズ』参加、佐藤博とのハイ・タイムス、そして山下との出会いが一直線に繋がったことによる奇跡だった。
なぜ、青山・伊藤の“黄金リズム隊”は、2人セットで山下の前に現れたのか? それは、彼らがさまざまな“縁”によってバンド「マジカル・シティー」のメンバーとして出会い、ともにプロとして活動し始めたからである。
山下の妻であり、青山とは杉真理の『Mari & Red Stripes』で共演していた竹内まりやも、自身の代表曲「駅」について、「週刊朝日」(2019年9月3日配信)の神舘和典氏によるインタビューで以下のように語っている。
竹内「この曲はリズムが意外と骨太にできています。ドラムの純君(青山純)とベースの広規さん(伊藤広規)のすばらしいコンビネーションに達郎のギター・カッティングが絡み、さらに服部克久先生の流麗なストリングスが響くというアンサンブル。その絶妙なアレンジによってスタンダードな一曲となりました」
もしも、滝沢がロビー和田と出会っていなければ、新川が青山と出会っていなければ、伊藤が長谷川康之とスキー場で出会っていなければ、滝沢が有本俊一から新川と青山と牧野を紹介されていなければ、村上ムンタが脱退して伊藤が加入していなければ、滝沢がデモを和田に持ち込んでいなければ、滝沢のデモが和田によってアルファに持ち込まれていなければ、粟野敏和が滝沢の「最終バス」を聴いていなければ、青山と伊藤が『レオニズ』に参加していなければ……。どれか一つでも欠けていれば、日本のポップス史は大きく変わっていたのかもしれない。
山下や大貫妙子らのシュガー・ベイブによる歌声が小さなライブハウスで響いていた1975〜6年頃、そして大瀧詠一が彼らの楽曲を吹き込んでいた当時、もう一つの「風」が誰にも気づかれず、しかし確実に吹いていたのである。
「風」はその後、偶然にも一つになり、やがて大きな「うねり」となって日本中はおろか、今や世界中に吹き荒れている。その日が来るまでに、実に40年以上もの月日が必要であった。
青山・伊藤がラジオで明かしたマジカルと滝沢
実は2013年5月、伊藤・青山は放送作家の植竹公和が構成・進行を担当するラジオ日本『伊藤広規と青山純のラジカントロプス2.0』の中で、それまで誰も口にしていなかった滝沢とマジカルの関係、そして自身らのプロデビュー当時について初公表していた。
植竹公和「プロの最初の仕事ってなんですか?」
伊藤広規「小坂明子とか」
青山純「そう。小坂明子とか、田山雅充とか、ハイ・ファイ・セットのバックをやりながら、さっき話してた杉真理のレコーディングをやりつつライヴもやりつつ、それで広規と知り合って」
植竹「その後に」
青山「滝沢洋一さんってもう亡くなられたんですけども、そういうシンガーソングライターがいて、その人のバックバンドでマジカル・シティーってバンドが出来上がって、そこから本格的にプロとして始動し始めるんですよね」
植竹「えー、入り口は小坂明子さんですか」
伊藤「いや、その滝沢洋一さんのバンド」
青山「まあ、その辺。舘ひろしもやってたんだよね」
植竹「マジカル・シティーってのが一つの」
青山「バンドだったんですよ。バックバンド」
植竹「その時のキーボードの方とか、他の方はどんな方」
伊藤「新川博って言うアレンジャーの」
植竹「新川博さん? 狭いなー。結局こういう世界って本当狭いですね」
伊藤「あとはギターの牧野っていうのがいて。その頃に佐藤博と知り合って。で『バンドやらへんか?』とか言われて、その4人で佐藤博とハイ・タイムスってのをしばらくやってました」
植竹「へぇ〜。プロで行けると思ったのって青山さんいつからですか?」
青山「いやあ、佐藤博さんと知り合った頃ぐらいからかなあ」
植竹「80何年ぐらいですかね?」
伊藤「79年ぐらいじゃないですか」
青山「79年かなあ」
伊藤「達郎に会うちょっと前ぐらい」
青山「ちょっと前ぐらいかなあ」
植竹「伊藤さんもその頃?」
伊藤「ちょうどまあ、その辺りから、なんかプロで食えんのかなぁ〜とか思ってるうちに、なんか忙しくなっちゃって」
(ラジオ日本『伊藤広規と青山純のラジカントロプス2.0』2013年5月14日放送より)
青山は、この放送のわずか7カ月後の12月3日に肺血栓塞栓症により56歳の若さで急逝した。そして、この放送の内容はネットユーザーによってテキストとして書き起こされて公開されていた。筆者は、すでに消されてしまったサイトにてこの発言を知り、滝沢とマジカルの関係性に初めて気づくことができたのである。
もしこの時、青山と伊藤が滝沢の名をラジオで口にしていなければ、筆者はマジカルと滝沢の関係、いやマジカルというバンドの存在すら知ることはなかっただろう。そして本連載でこれまで紹介してきた彼らの歴史も、当事者たちの思い出の中だけで終わっていたに違いない。
滝沢洋一は2006年4月20日、青山と同じ56歳で持病の肝炎が原因で亡くなっていた。誕生日も3月9日(滝沢)、3月10日(青山)と1日違いの2人は、自分たちの関わった楽曲が海外で再評価されていることも知らぬまま天に召されたのである。
青山が亡くなった翌年の2014年1月30日、青山純「お別れの会」が東京・北沢タウンホールで開かれた。多くのファンや音楽仲間たちが献花に訪れ、故人との生前の思い出話に華を咲かせていたという。
当日、弔問に訪れた植竹が撮影していた、供花の片隅に立てかけられた「芳名板」には、伊藤、山下らの名前とともに一人の名前が掲げられていた。
マジカルシティー 新川博
この日、新川は自身の所属を「マジカルシティー」と書いた。新川の心の中には、青山とともに1975年から1976年に所属していたバックバンドがずっと生き続けていた。
若き日に出会った青山らと活動したマジカルでの思い出は、今もメンバーたちの中に存在し続けているのである。
しかし、その後、彼らが起こしていた「別の奇跡」が、ある一曲によって発見されることになろうとは誰も知る由もなかった。
“お蔵入り”になった悲運のセカンドアルバム『BOY』
アイドルやタレント、歌手らに歌謡曲などの曲を提供する専業作曲家として活躍し始めた滝沢洋一に1981年頃、再び「ソロアルバム」制作の話が持ち上がった。それが、本連載Vol.1の冒頭にも登場した、幻のセカンドアルバム『BOY』である。
『BOY』の制作は、滝沢が契約していたアルファ系列の音楽出版社「ケイ・ミュージック・パブリッシング」ディレクターの故・高木淳が、「ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)」ディレクターの庵豊(いおり・ゆたか)に滝沢を紹介したことからはじまった。庵は、後に良品計画で「無印良品」の店内BGMを手がけたことで知られている人物だ。
81年秋、日本初のリゾートスタジオとして有名なキティの「伊豆スタジオ」(静岡県伊東市)にて、滝沢や参加ミュージシャン、庵・高木の両担当ディレクター、エンジニアの石崎信郎らとともに泊まり込みのレコーディング合宿が約10日間ほどおこなわれたという。
そして82年7月25日の発売が事前に予告されながら、なぜか発売が延期されて『BOY』は「お蔵入り」となった。筆者がアルバムの存在を知ったのは、滝沢のラスト・シングル『サンデーパーク』(82年6月25日発売、ワーナー)の歌詞カードに小さく出ていた「アルバム発売のお知らせ」である。『BOY』は、このラスト・シングルが出た1カ月後には店頭に並ぶはずであった。
遺族によると、発売直前に行われた社内の販売会議の選考に漏れ、庵が良品計画へ転職するなどの諸事情も重なって、『BOY』は幻のアルバムになってしまったという。
その『BOY』には、滝沢のセルフカバー曲が2曲収録される予定であった。
1曲は、ビートたけしに提供した名曲「CITY BIRD」の滝沢版「シティーバード」。
この曲は、滝沢のラストシングル『サンデーパーク』のB面に収録されたことで日の目を見た。そして、2015年に発売された『レオニズ』初CD化の際にボーナストラックとしても収録され、2021年6月には各種サブスプリクションでも解禁されている。
たけし版とは、一人称「俺」「僕」の違いや、歌唱法、アレンジなどを聴き比べることが可能だ。
そしてもう1曲のセルフカバーが、西城秀樹に提供した「かぎりなき夏」。
この曲は、西城のアルバム『GENTLE・A MAN』(1984)に収録されることで世に出ることができた。同アルバムは2013年10月30日に初CD化され、2022年12月23日に約9年ぶりに再発された。
この「かぎりなき夏」、厳密にはセルフカバーではなく、滝沢の『BOY』がお蔵入りになったがために、西城秀樹へ曲が提供されることになった「幻のオリジナル版」である。
タイトルの「かぎりなき夏」は、『スローなブギにしてくれ』などで知られる作家・片岡義男のファンであった滝沢が、作詞家ありそのみに片岡の小説『限りなき夏 1』(1981年、角川文庫)をイメージした詞を依頼したことによって付けられたという。
西城の所属事務所アースコーポレーションの元社長で、西城の大ヒット曲「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」の日本語詞を手がけた天下井隆二は、この「かぎりなき夏」という曲のことを覚えていた。
天下井「西城の『GENTLE・A MAN』というアルバムの曲で、コンサートでもよく歌っていたと記憶しています。レコーディングの経緯は岡村さんにお聞きするのが一番だと思います」
「岡村さん」とは、1976年に音響ハウスでおこなわれた、あのマジカルのデモ・テープ録音を主導していた、元RCAレコードの岡村右のことである(本連載Vol.2参照)。
岡村は70〜80年代にかけて、RCAで西城や角松敏生の担当ディレクターであった。滝沢は『BOY』がお蔵入りとなった翌83年、旧知の岡村を訪ね、保存用にコピーした『BOY』の楽曲を聴かせていたのだ。
岡村は、西城へ「かぎりなき夏」が提供された経緯をこう明かす。
岡村「当時、西城はスタッフと共に芸映を退社してアースを設立し、独立したばかりでした。そして、それまでのアイドル路線から大人の雰囲気、つまりAOR路線に変更したいと考えていたんです。そんな時、滝沢さんから<かぎりなき夏>を聴かせてもらって、この曲がピッタリじゃないかということで、アルバムの収録曲としてレコーディングが決まりました」
かくして、滝沢の『BOY』収録曲は「シティーバード」に続き、この「かぎりなき夏」も日の目を見ることができた。
その西城版「かぎりなき夏」のアレンジを担当したのが、他でもない元マジカルのメンバーで、すでに大人気アレンジャーとなっていた新川博であった。
新川のアレンジした「かぎりなき夏」は近年、西城ファンの間でも大変人気の高いシティ・ポップ路線の一曲となっている。
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シティ・ポップを世界に広めた先駆者が語る「かぎりなき夏」の普遍性
そんな西城秀樹の「かぎりなき夏」という曲に魅せられた一人の男がいた。
ヴァン・ポーガム(Van Paugam)。
アメリカ・イリノイ州シカゴCityでDJとして活躍する彼は、日本のシティ・ポップをmixし、YouTubeで世界中の音楽ファンに紹介した人物である。
ヴァンは2016年、YouTube上の個人チャンネルにていち早くシティ・ポップmixを公開、2019年1月時点でチャンネル登録者数は9万人を超え、すべての動画の再生回数の合計は200万回を優に超えていた。
欧米の音楽ファンは、彼のmixによって初めて聴く日本のシティ・ポップに熱狂する。そして、こんなにもクールな音楽が極東の島国で70~80年代に数多く作られていたことに驚愕したのである。
しかし、そんな彼を悲劇が襲う。
2019年、ヴァンのチャンネルが日本のレコード関係の団体から「著作権侵害だ」との警告を受けたのだ。
彼は、ライセンス元を明記して著作権を侵害しない合法的な形でのmix再アップを何度も同団体に掛け合ったが、その願いは聞き入れてもらえず、同年2月14日、彼のYouTubeチャンネルは永久に消滅した。
その後、YouTubeの規約変更によって、ライセンス元の社名を動画内に明記する形であれば音楽関係の動画がアップ可能となり、他のDJらによるシティ・ポップmixの動画の多くが問題なく公開されているのはご存知の通り。
ヴァン・ポーガムは、あまりにも早くシティ・ポップを広めたがためにアカウントを失い、世界的なシティ・ポップブームが訪れたときには、彼の名を思い出す者はほとんどいなかった。
それはまるで、シティ・ポップの先駆者と言われながら、生きているうちに才能が世間に認められなかった滝沢洋一の存在とも重なる。
ヴァンが2016年に初めてYouTubeチャンネルにアップしたというmix音源は、まだSound Cloudの中に残っていた。
今、改めて聴いてみると、DJ ヴァン・ポーガムの先見性に驚かされる。そこには昨今、世界で再評価が高まっているシティ・ポップの名曲ばかりがラインナップされていたからだ。
同mixには竹内まりや「プラスティック・ラヴ」はもちろん、松原みき「真夜中のドア」、山下達郎『FOR YOU』収録の「LOVE TALKIN’(Honey It’s You)」、細野晴臣「SPORTS MAN」、そして角松敏生、八神純子はもちろん、真鍋ちえみ、当山ひとみ、間宮貴子、大橋純子、山根麻衣、和田加奈子なども含まれていた。
さらに2017年4月には、カナダ出身のシンガーソングライターザ・ウィークエンドが2022年にリリースしたアルバム『Dawn FM』でサンプリングしたことで知られる亜蘭知子「Midnight Pretenders」や、欧米で高評価を得ている佐藤博「Say Goodbye」など、今や日本より海外の方で人気が高いシティ・ポップ曲を多数mixして紹介している。
つまり彼は、今世界的に起きているジャパニーズ・シティ・ポップブームの火付け役であり、真の立役者だったと言えるだろう。
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そんなヴァン・ポーガムが、滝沢作曲・新川アレンジの西城秀樹「かぎりなき夏」をシティ・ポップの名曲として愛し、わざわざ特設ページを作成して紹介していることを知った。
そこには、西城秀樹ファンであるXユーザーの@Silasmybairn氏と@Goldenearrigs氏が共同で翻訳した「かぎりなき夏」の英訳詞や、西城の歌唱する同曲のYouTube動画までエンベットされている。
以下のページを見ただけでも、ヴァンがどれほど西城秀樹を、そして「かぎりなき夏」という曲を愛しているかをうかがい知ることが出来る。
私は、このページをキッカケに、ヴァンが日本のシティ・ポップをいち早くmixして世界に広めたDJであることも同時に知ったのである。
日本のシティ・ポップ、とりわけ西城秀樹という歌手を、そして「かぎりなき夏」という曲をここまで愛する人物ということで、私は彼にメールで話を聞くことにした。
———あなたが西城秀樹の歌う「かぎりなき夏」という曲の大ファンであることを知りました。この曲を知ったきっかけは何だったのでしょうか?
ヴァン「数年前、秀樹の音楽を調べていた時に初めて聴きました。そのときから、彼の曲の中で最も好きな曲のひとつになり、彼の代表作としてよくクレジットしています」
———世界的シティ・ポップブームの先駆者であるあなたの名前を、私はもっと多くの日本人に広めたいと思っています。シティ・ポップという音楽を発見した時のこと、どれほどシティ・ポップという音楽が好きなのかを詳しく教えて下さい。
ヴァン「アメリカへの移民二世である私はフロリダ州マイアミ生まれですが、アメリカ文化とのつながりを感じたことはありません。日本文化に憧れていた私は、何年もかけて日本文化への愛を開花させました。私は、自分のいるアメリカという場所になじめず、人生の目的は何だろうと何度も考えました。
ところが、シティ・ポップに出会ったとき、自分の存在意義を見つけたような気がしました。多くの人が忘れてしまった音楽を広めることで、自分も含め、多くの人に幸せをもたらすことが出来たからです。私は<自分の中で眠っていた何か>と再びつながる方法を見つけたのです。
シティ・ポップは、自分自身、欧米、そして日本について新たな理解に目覚めるための良いツールとなりました。多くの日本人がこれらの音楽を忘れてしまっていたという事実は、私にとって信じられないことであり、これらの曲を初めてmixにまとめたことで<ニューフロンティア>のように感じたのです。私は、自分の精神が命じるままに行動していたのだと思います。
私がシティ・ポップのmixをアップロードした数年後、アメリカのレコード会社が、私のmixした曲の多くをシティ・ポップのコンピ盤に使用しましたが、西側でこれらの音楽が再発見されるキッカケを作った私の仕事は、一切クレジットされないままでした。
自分のチャンネルが削除されたとき、私は裏切られたような気がしました。<もし私が日本人だったら、もっと受け入れてもらえたかもしれない>とも思ったのです。今でも、この話題について話すのはとても苦痛に感じるので、あまり考えないようにしています。
今は自分のYouTubeチャンネルを持たずとも、ライブイベントなどで音楽をかけ、皆さんに楽しんでいただいています。音楽は今でも、哀愁を漂わせながらも幸福感をもたらしてくれます。そんな魔法を与えてくれるものとして、私は音楽をずっと愛しています。
シティ・ポップは、世界中の人々を結びつける力を持つものであり、新しい世代の心の中に放たれた今、二度と忘れられることはないでしょう」
世界で誰よりも先にシティ・ポップmixを公開しながら、表舞台で注目される機会を失い、長いこと不遇の時代が続いていた世界的シティ・ポップブームの先駆者、DJ ヴァン・ポーガム。
彼は、わざわざ送ってくれた動画の中で、西城秀樹「かぎりなき夏」について以下のように評した。
ヴァン「滝沢洋一が作曲した<かぎりなき夏>という曲は、感性に訴えかけてくるような美しさで構築されている音楽、としか言いようがありません。
一曲の中に様々なモードがあり、聴き手の期待を膨らませながら激しい<サビ>が押し寄せてくる。
西城秀樹の声は、この曲にぴったりで、メロディーとシンクロした歌詞の表現世界が見事な効果を上げていると思います。
また、この曲の主題も非常に美しく、それでいて哀愁味を帯びている。
シンプルに言って<完璧な曲>だと思います」
誰よりも早く日本のシティ・ポップを世界中に広めた「真の先駆者」であるDJヴァンをして「完璧な曲」と言わしめた、西城秀樹「かぎりなき夏」。
しかし、この曲の「奇跡」は、これでは終わらなかった。
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42年ぶりに作詞家宅から発見された「一枚の楽譜」
私は、「裏窓のブログ」というバンドのブログを通じて、この曲の作詞を担当した作詞家ありそのみと繋がることができた。
ありは、クリスタルキングのヒット曲「大都会」B面の佳曲「時流」や、八神純子「I’m A Woman」、早見優「太陽の恋人」など、70-80年代のアイドル歌謡、ニューミュージックのジャンルで主に活躍していた作詞家だ。
滝沢の『BOY』収録予定曲のうち、シングルカットされた『サンデーパーク』の作詞も手掛けている彼女は、40年以上を経た今でも、「かぎりなき夏」の歌詞が自身の代表作だと語った。
あり「実は、私にとって<かぎりなき夏>の歌詞は、個人的にとても思い入れのある作品なんです。よく、ありさんの代表曲は?って聞かれるんですけど、私は西城秀樹さんのアルバムにしか入っていない曲だけれど、この曲をいつも挙げてきました。シングルにもなっていない、カラオケにも入っていないので、カセットに録音して知り合いに聴かせていたこともあります」
ありによると、滝沢の幻の2ndアルバム『BOY』のディレクターであった庵豊からの依頼で、「かぎりなき夏」の作詞を手掛けることになったという。
あり「滝沢さんはメロ先(メロディを先に作ること、曲先)だったので、あの歌詞は、まさに滝沢さんのメロディが連れてきたんです。あの美しい曲があの歌詞を私に書かせたんだと思います」
この曲は他の多くの滝沢作品同様に「曲先」であった。そして、幻想的で美しい男女の描写と、夏の終わりを感じさせる情景の詞世界は、あのメロディが連れてきたものだった。
しかも、ありは「片岡義男の小説のイメージで」というオーダーに対して、片岡の『限りなき夏 1』をあえて読まなかったという。
あり「前から、片岡義男さんの作品は印象的なタイトルも含めて大好きでしたが、作詞するにあたって『限りなき夏 1』はあえて読みませんでした。変に影響を受けずに済んだという意味で、むしろ読まなくて良かったと思っています」
横顔しか見えない「君」と、その瞳に映る「僕」だけが取り残された、冷たい風が吹く季節はずれの砂浜。そのイメージは、片岡の小説ではなく、滝沢のメロディによって紡ぎ出されたものだったのである。
その後しばらくして、ありから一通のメールが届いた。
そこには一枚の画像とともに、やや興奮気味な文面が綴られていた。
あり「近々、転居をするのでいろいろと引っ掻き回していたところ、古い作品の下書きやらメモなどの束の中に<かぎりなき夏>のメロ譜がありました! 自分でもビックリです。どなたが書いたのかはわかりませんが…。とりあえず写メ送ってみます」
そこには一枚の楽譜が写っていた。
タイトルの横に書かれた「トクちゃんへ」とは、おそらく滝沢が歌唱する同曲オリジナル版のアレンジを担当した、日本を代表するカントリーギターの名手・徳武弘文へ宛てた楽譜だったことを示している。
その他「ニース、カンヌ、女の子にふられる」というメモ書きもある。これは、外国の風景や世界観をイメージしながら、詞よりも先に作曲をすることの多い滝沢が書いた「かぎりなき夏」の楽譜に違いない。
そのように直感した私は、滝沢のご遺族へ連絡し、これが滝沢の自筆による楽譜かどうかをたずねた。数日後に届いたご遺族からのメールにはこう書かれていた。
「これは間違いなく滝沢の書いた楽譜です」
作詞家ありそのみの自宅から、期せずして発見された「かぎりなき夏」の楽譜。これは、この曲が曲先であることを示しているばかりでなく、滝沢がどんなイメージを膨らませながら作曲していたかについても教えてくれた。
滝沢の2ndアルバム『BOY』がお蔵入りになって西城秀樹へ曲が提供されることになった経緯、当時の担当ディレクターおよび作詞家から得た証言、世界的シティ・ポップブームを作ったDJヴァン・ポーガムと「かぎりなき夏」の邂逅、そして今回の楽譜の発見…。
この曲をめぐる「数々の奇跡」は、いったい何を意味するのだろうか。
その答えは、この曲自身に隠されていた。
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西城秀樹「かぎりなき夏」にかけられていた“都会の魔法”
2024年1月、西城版「かぎりなき夏」について取材しているときに、ふと気づいたことがあった。それは、
「この印象的なドラムとベースは、ひょっとしたら青山純と伊藤広規の演奏ではないか?」
この曲が収録されているアルバム『GENTLE・A MAN』のCDやレコード盤には、参加ミュージシャンのクレジットが無い。
ダメ元で、アレンジを担当した新川にたずねてみると「まったく覚えていないですね」との返答があった。
しかし、80年代に新川と一緒に仕事をしたことのある人物からの伝聞によると、当時の新川は自分の采配で参加ミュージシャンを決めていたことが多かったという。
滝沢作曲、新川アレンジの曲であれば、ドラムとベースに元マジカル・シティーのメンバーを選んでいても不思議はない。
私は伊藤の事務所宛に、音源を添付してメッセージを送付した。「この、西城秀樹<かぎりなき夏>は、青山・伊藤の“黄金リズム隊”が演奏していますか?」と。
数時間後に返信が届いた。
「この曲は青山純、伊藤広規コンビに間違いありません」
1976年に初めて志賀ハイランドホテルで共演してから、2013年に亡くなるまでの約37年間、伊藤は青山純のドラムを聴き続けてきた。
伊藤が「金物は小さい、皮物はデカい」と表現していた青山のドラムを聴き間違えることは無いだろう。
滝沢洋一:作曲、新川博:編曲・キーボード、青山純:ドラム、伊藤広規:ベース。事実上の「マジカル・シティー再結集」が実現していた。
西城秀樹「かぎりなき夏」は、世界的シティ・ポップ大ブームの礎を築いてきた彼らの才能が結実した一曲だったのである。
そんな曲を、はるか海の向こうのアメリカ合衆国で、日本のシティ・ポップブームの先駆者であるDJが再発見していたのも、ある意味では必然だったのかもしれない。
さらに、この曲は西城ファンのXユーザー「エーテル@今年もラジオ(@45BYzE1QQJvGdzB)」氏によって40年もの間、西城秀樹の歌唱する姿がVHSで保存されていた。
シングルにもならず、アルバムのみの収録、もちろんヒットもしていないこの曲を、西城はテレビ番組で歌唱していたのだ。
1984年3月5日に発売された西城秀樹のアルバム『GENTLE・A MAN』は、本日40周年を迎えた。
その記念すべき年に「滝沢洋一とマジカル・シティー」は、西城秀樹「かぎりなき夏」とヴァンによって名実ともに「世界のマジカル」となったことが証明された。
しかし、1982年の滝沢洋一“幻の2ndアルバム”『BOY』お蔵入りの悲劇があったからこそ、この曲が世に出たという事実を忘れてはならない。この曲には、滝沢が歌唱する「オリジナル版」が存在するからだ。
滝沢の『レオニズ』をシティ・ポップの名盤として“発見”した音楽ライターの金澤寿和は、2023年10月7日に『レオニズ』発売45周年を記念しておこなわれたトークイベント『Mr.シティ・ポップ 滝沢洋一の世界』(於:エスパスビブリオ@御茶ノ水)で、未だ世に出ていない滝沢洋一のアルバム『BOY』ついてこのように述べていた。
金澤「これは滝沢さんに限らないんですが、曲が世に出るとか大ヒットするというのは、曲の良さとか演奏の良さとかだけじゃないんです。運とかタイミングとか、いろいろな条件が揃わないと、レコードとして形にはならない。
今のシティ・ポップのブームを見ればわかるように、あの当時まったく売れなかったような曲が、亜蘭知子さんのように世界的アーティストにサンプリングで使われて注目されたり、松原みき「真夜中のドア」だって当時オリコンで最高28位だったものが世界的にヒットしました。
つまり、過去と現在の“再評価の軸”がまったく違うんですね。いくら古くても、きちんと作ったものは評価されると思うんです。
前にEPOさんへ取材したとき、“70-80年代から今に至るまで、その良さが変わらないもの、普遍的なものって絶対にありますよね”という話になったんです。それは滝沢さんの作品にも当てはまります、どんなに時代が経っても良いものは良いと。ただ、それが<世に出るか・出ないか><売れるか・売れないか>という違いだけで。形になるかどうかというのは、言ってみれば“パズル”みたいなものなんですよ」
発売された当時にヒットしたかどうか、という評価軸だけでは、現在の世界的シティ・ポップ大ブームを理解することはできない。今になって聴いたら、あるいは10年後に聴いても「時の試練」に耐えられるかどうか、という評価軸によって、日本人の知らないシティ・ポップはこれからも世界中で発見され続けてゆくことだろう。
ヴァンは言う。
City Pop overseas is just beginning to explode in popularity. I think remixes of City Pop are a fad that died in the 2010s though. There is much more to spread in terms of its history and influence in the West. My book will explore these topics and more. More info coming soon.
— Van (@vanpaugam) February 28, 2023
「シティ・ポップは今、世界で人気が爆発し始めたところだよ。シティ・ポップのリミックスというものは2010年代に死んだ流行だと思う。その歴史や欧米への影響力など、もっと広まるべきことがあるはずだよ」
彼の言うとおり、シティ・ポップは今ようやく好事家たちのコレクションから解き放たれ、インターネットを通じて広まり、やがて定番化し、さらに市井の人々の耳にまで降りてきたところなのかもしれない。
そして、 ヴァンの愛する「かぎりなき夏」は今、遠いアメリカ・シカゴの地まで遠回りしながらも、40年ぶりに祖国ニッポンへ“凱旋”しようとしている。
今後、滝沢洋一の2ndアルバム『BOY』が世に出ることで、この曲は一つの大きな区切りを迎える。
ワーナーミュージック・ジャパン・ワーナー・ハイブリッド・ストラテジック邦楽部門の小澤芳一(おざわ・よしかず)氏によれば、ワーナーには『BOY』のマルチマスター・テープが現存しているという。
しかし、
マルチマスターは4本あり、これをすべてミックスダウンしたとして、レコーディング費用は掛からないためミックスダウンとマスタリングの費用のみで済むことから、そこまで高く無い金額でCD用のマスター音源は作れるそうだ。
お蔵入りから42年目の初リリースまで「あと一歩」。
西城秀樹、滝沢洋一、マジカル・シティー、そしてヴァン・ポーガム。彼ら7人の「かぎりなき夏」が始まった。
僕が年をとったら…語り明かそう「思い出話」を
ここに一つの音源がある。1976年に滝沢洋一とマジカル・シティーが、ロビー和田のプロデュースで「僕が年をとったら」という曲を録音した時のレコーディング風景(NG集)である。
そこには、出だしのタイミングを間違える青山純、カウントをミスった新川博、爆笑する伊藤広規、メンバーの失敗に呆れる牧野元昭、ヘッドフォンをし忘れる滝沢洋一などが記録されており、メンバーそれぞれの性格や関係性を垣間見ることができて面白い。
何度もNGを繰り返す新川に苛立つ滝沢、そこへ青山がドラムで「カツ、ドン!」(カツ丼)と音を鳴らして新川や伊藤、牧野らを笑わせる。滝沢がヘッドフォンのし忘れで怒られたかと思えば、直後に青山がヘッドフォンをし忘れて和田に怒られる。
そんなドタバタを繰り返しながら完成したのが、下記の音源「僕が年をとったら」のデモ・テープである。
未発表のまま48年も眠っていた楽曲には、のちに世界を驚かせるミュージシャンたちの息づかいが聞こえてくる。
これらの音源は、まだ二十歳そこそこの若者たちが、今までにない“新しい音楽”を、いわゆる「ヘッドアレンジ」の手法で作ってゆく過程が良くわかる貴重な資料と言えるだろう。マジカルのギター、牧野は語る。
牧野「一般的なスタジオワークのような<アレンジャーの書いた譜面をただ弾くだけ>という仕事と違って、曲を覚えながら自分たちのパーツを自分たち自身で作ってゆく作業は、とても楽しく創造的でした。当時の音源を何十年ぶりに聴き返してみて、まだまだ技術的には未熟でしたが“ヤル気”が漲っており、若い頃の仕事として誇りを持てるものだと思います」
その牧野は、マジカル自然解消後も著名なジャズミュージシャンや和楽器奏者らとのライヴセッションを経験し、1986年には米バークリー音楽大学へギター留学した。同大を卒業後、ヴァンが住む米国シカゴに移住しグラミー賞受賞ブルース・ハープ奏者シュガー・ブルーのバンドにギタリスト・音楽監督として14年も在籍。約18年間のアメリカ生活を経て2004年に帰国し、現在は活動拠点を沖縄に移して日本国内を中心にライヴ活動を続けている。
マジカル・シティーのメンバーたちは、結成から48年を経た今も、それぞれ“新しい音楽”を創造し続けている。
エピローグ〜新たに判明した「シティ・ポップ最大の謎」
ところで、本連載Vol.1で紹介した、1976年にロビー和田プロデュースで録音の滝沢洋一とマジカル・シティー「東京音楽祭(マリーナ・ハイウェイ原曲)」だが、大きな謎が隠されていたようだ。
シティ・ポップの名曲として今や世界的人気を誇る楽曲、山下達郎アレンジの吉田美奈子『恋は流星』(シングル盤およびアルバム『Twilight Zone』所収、1977/RCA)とほとんど同じ歌詞が使われていたことが判明したのである。つまり、滝沢は吉田の作詞した歌詞を見てこの曲を作り、のちに歌詞を差し替える必要が生じて『レオニズ』に「マリーナ・ハイウェイ」(作詞は小林和子)という曲名で収録したのだ。「マリーナ〜」のメロディは、吉田美奈子の詞によって生まれたものだった。
吉田美奈子の「恋は流星」といえば2017年12月、テレビ東京系の人気番組『YOUは何しに日本へ?』で、スコットランド人男性がこの曲のシングル盤を求めて来日した様子が放送されたことが話題となった。それほど海外で人気の高い曲であり、シティ・ポップブームを象徴する一曲でもある。
どのような経緯で吉田の詞が滝沢側に手渡されたのか、その詳細はまったくわかっていない。吉田本人に取材したところ「(滝沢の)名前も存じ上げないし、詞を依頼された記憶もありません」とのことだった。
ちなみに、吉田を「(アルファと原盤制作契約を結んでいた)東芝EMIではなく、RCAからレコードを出そう」と説得した張本人はロビー和田だったという。
シティ・ポップ最大の謎、その真相や如何に。
マジカル・シティーが期せずして掛けていた“シティ・ポップの魔法”、その謎解きはまだ始まったばかりだ。(完)
本連載を、滝沢洋一、マジカル・シティー 青山純の両氏に捧げます。
Special thanks : (順不同)
滝沢家・鈴木家の皆様
粟野敏和
伊藤広規
新川博
牧野元昭
村上ムンタ良人
荒木くり子(伊藤広規office)
青山家の皆様
岡村右
天下井隆二
庵豊
金澤寿和
松永良平
濱田髙志
小澤芳一(TOKYO CITY POP)
森田聰美(Sony Music Publishing)
ALFA MUSIC
ありそのみ
ヴァン・ポーガム
植竹公和
裏窓のブログ
カイエ(2R again)
髙井順子
エーテル@今年もラジオ
吉田美奈子
山上ジュン
小林清二
(本文内、敬称略)
連載記事アーカイヴ
● 【Vol.1】奇跡的に発見された大量のデモテープ
● 【Vol.2】デモテープに刻まれていた名曲の数々
● 【Vol.3】達郎も秀樹も気づかなかった「真実」(本記事)
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