天安門事件で地に落ちた信用を取り戻すために「天皇訪中」を利用。なぜ窮地を逃れた中国は“日本悪魔化プロパガンダ”を始めたのか?

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35年前の6月4日に発生し、一説では1万人以上が犠牲になったと伝えられる天安門事件。自国民に銃を向けるという蛮行で国際社会の信用を失った中国に、我が国がまんまと利用されたことは広く知られた事実でもあります。今回の無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』では国際関係ジャーナリストの北野幸伯さんが、中国共産党がいかにして天安門後の窮地を脱したかを改めて振り返るとともに、日本が忘れてはならない「教訓」を書き記しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:天安門事件から35年、日本が決して忘れてはいけない教訓とは?

天安門事件から35年、日本が決して忘れてはいけない教訓とは?

全世界のRPE読者の皆様、こんにちは!北野です。

6月4日は、中国で天安門事件が起こった日です。今年で35年になります。

これ、私たちの年代の人は、記憶があるでしょう。しかし、若い人たちは知らないかもしれないので、一応「天安門事件とは何か?」について。「NHK 政治マガジン」から。

天安門事件は、1989年6月4日、北京の天安門広場に集まり民主化を求める学生や市民を、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧したものです。

保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことをきっかけに、北京にある天安門広場で学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変わっていきました。

さらに、中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われました。

事態を重く見た中国共産党は北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲して武力で強制的に鎮圧しました。

この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。

中国政府の発表では死者319人ですが、「少なくとも1万人」という情報もあります。

「天安門事件の死者は1万人」 英公文書を公開

正確な犠牲者数が明らかになることは、おそらくないでしょう。

さて、この事件で何が変わったのでしょうか?中国の評判が失墜しました。

この事件前のできごとを見てみます。1970年代初め、アメリカは、ライバルソ連に勝つために、中国と「事実上の同盟国」になることを決めました。1972年、ニクソンが中国を訪問し毛沢東と会ってから、米中関係はずっと「事実上の同盟関係」(当時の大統領補佐官キッシンジャー曰く)だったのです。

1976年、毛沢東が亡くなりました。1978年鄧小平が中国の実権を握ります。鄧小平は、真のリアリスト。アメリカや日本から資金と技術をもらい、中国経済を大発展させる決意を固めていました。

小柄で、微笑みを絶やさず、悪気なさげにみえる鄧小平は、日本や欧米で大人気だったのです。しかし1989年に起こった天安門事件で、日本と欧米は、「鄧小平の本性」を知ってしまった。

天安門事件から2年後の1991年、ソ連が崩壊しました。このことは、「アメリカ・中国同盟の共通の敵が消滅した」ことを意味していました。つまり、「米中同盟の意義」が消えてしまったのです。そして、アメリカでは、「唯一の敵ソ連は崩壊した。では、なぜアメリカは、天安門で学生を大虐殺した共産中国と仲よくしているのか?」と当然の疑問がでてきたのです。

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