朱子学への一知半解がその一因か
丸山眞男に関する限り、どうも徳川幕府公認の思想である朱子学に対する偏見というか、極めて一面的な理解の仕方が根底にあって、中国の清朝も朝鮮の李朝も朱子学という封建思想にしがみついたが故に滅びたのであり、徳川幕府も同じことになりかけたところを朱子学批判の国学が台頭したために辛うじて「近代」の扉を開くことが出来た、と考えたようである。
丸山の解釈によれば、朱子学は「自然的秩序」を重んじてそれに自分を合わせて行こうとするばかりなので、積極的に「近代」を生み出さない。それに対し、中国古代の聖人たちの原典に立ち戻って再解釈し「作為的秩序」〔能動的に新しい秩序を作り出して行こうとする変革の姿勢という意味か〕という考えを打ち立て、その観点から朱子学を批判したのが荻生徂徠で、彼こそが日本近代思想の嚆矢である。その萩生の方法論を応用して『古事記』『日本書紀』を研究し直すことで国学の体系を作り上げたのが本居宣長で、これによって近代的思惟が開花したのだとされる。
しかし、ここまで読んだだけで変だと思うのは、荻生徂徠の朱子学批判は儒教内部の解釈論争として、より近代的な〔のかどうか私には判断材料がないのだが〕儒教理解の別の仕方を提起したという域を出ない。ところが本居宣長となると、確かに方法論として「古典に立ち返る」ことで朱子学に対抗したという点では萩生と共通するけれども、そこから生み出されたのは国学、やがてはその発展・暴走形態としてのファナティックな皇国史観イデオロギーであり、それが何程か「近代的」と言えるものなのかどうかは大いに議論の余地があるだろう。
丸山は、憎っくき朱子学の解体にプラスであったという唯一点で荻生と本居を一緒くたにし、その本居の延長上に平田篤胤がおり、さらにその先に吉田松陰がおり、その吉田が福沢諭吉の近代的な「天賦人権思想」のほとんど一歩手前まで接近していたという脈絡で明治維新の背骨を描き上げた。これはいかにも無理筋の、恣意的な牽強付会の連鎖でしかない。
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