現役小学校教師が問う。何でも全部やってあげることは本当に親切か、不親切か

 

親切は、最高の美徳である。思いやりの行為化である。そして、これは、なかなかに難しい。

まず、相手がそれを有難い、必要と思わず、迷惑に感じられてしまうこともある。「親の心子知らず」と言うが、叱ってくれて有難いなぞと思えないのが普通である。思い切り反抗されたり陰口を叩かれたりする前提・覚悟が必要である。

しかし教育における真の親切は、相手が今この瞬間に否定的あるいは肯定的な感情を抱くか否かに関わらず行われる。先に紹介した「大善は非情に似たり」である。

相手が否定的態度をとっても、必要ならばやる。軽いところだと、食事中の行儀の悪さを指摘するなどは、これである。

一般のサービス業界においては、こういったことは、ほぼしない。サービス業において相手の感情を損ねることは、業績悪化に繋がるからである。

見ず知らずの店員に、自分の習慣や人間性の問題点を指摘されて嬉しいはずがない。お客様であれば、もうその店に来てくれなくなるかもしれない。マナーの悪さも周囲のお客様に迷惑をかけるような度を越したものは無視できないだろうが、それ以外は基本的にスルーである。

学校教育は、それら一般サービス業と同種ではない。教育の場であるから、必要ならば相手の感情どうこう抜きに実行する。「うるせぇばばあ!」と反抗される可能性があっても、断然やる。それが子どもの将来を見据えた真の親切であり、教育だからである。

また、それをすれば相手が肯定的感情を抱くかもしれない行為であっても、教育的に見て長い目で相手にとってマイナスとなれば、実行しない。

例えば、1年生は見た目も何も可愛いらしい。「人生の先輩」である6年生であれば、きっと何でもやってあげたくなる。しかし、1年生担任として、お手伝いに来てくれた6年生に次のことを必ずお願いをする。

「自分でできそうなことには手を出さないで欲しい。自分でできるようになるよう、サポートしてあげて欲しい。」

なぜならば、6年生はずっと一緒にいてくれる訳ではないからである。やがて必ずサポートが外れる。その時に、自分でできる力をつけさせておかねば、みんなが困ることになる。

だから、給食の準備のお手伝い一つとっても、6年生に全てをやってもらわない。スープの配膳のような、初期の1年生には難しいものも、6年生にマンツーマンでついてもらって、教えてもらいながら実行する。そういった積み重ねがあって、やがて自分たちだけでできるようになる。これこそが、真の親切である。

何でも全部やってあげることは、短期的に感謝されて喜ばれるかもしれないが、相手の成長にとってはマイナスでしかない。例えば看護や介護の現場で、本来歩ける能力のある人を寝たきりにさせておいたり全部車椅子を押してあげて移動させていたりしていたら、どうなるかは自明である。それは、「親切」のように見える、親切ごかしである。「小善は大悪に似たり」である。

親切がいいに決まっているのである。相手のことを長期的視点でも捉えて、どうすべきか判断する。相手から否定的な反応が出そうでも是であれば実行し、肯定的な反応が出そうでも非であれば実行しない。

なかなかに難しいことだが、親切こそが教育に必要な最高の美徳であると考える次第である。

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