パリ五輪にご用心。スポーツは観てもやっても「あまり身体には良くない」納得の理由

 

甲子園の試合を欠かさず見て、熱い声援を送っているお婆さんたちは、高校球児をあたかも神仏の化身であるかのように偶像化してしまいます。

純真無垢でひたすら精進を重ねる修行僧のような存在であるかのように、彼らが見えているのでしょう。

でも、ちょっと待ってください。

自分の高校時代に戻って、あなたと同じ学年の野球部の連中を思い出してください。

そんなご立派な修行僧のような野球部員が何人いたでしょう?

まあ、真面目で努力家の部員もいたにはいたでしょうが、そういう部員に限って野球の腕は今一つでいつもベンチを温めていたのではないでしょうか。

逆に、いわゆる不良で、隠れて煙草や酒もやっていた部員が、なぜか野球の勘だけは良くて、たまにホームランを打ったりするものだから4番をまかされたりしている。

まあ、そんなもんじゃなかったでしょうか。

無理もありません。

スポーツは戦争や殺し合いが文明化され洗練を繰り返して出来上がったものですから、腕っぷしが強くて、ケンカが得意で、闘争本能に長けている、いわゆる「ワル」の方が実力を発揮しやすい分野なのです。

もちろん、青春ドラマにもあるように、放っておけば警察のお世話になるような「ワル」がスポーツに目覚めれば、きついトレーニングを乗り越えて立派なスポーツマンに成長する場合もあるでしょう。

ですから、これは良い悪いの話ではありません。

要は「適材適所」ということです。

暴れん坊の孫悟空が心を入れ替えて、三蔵法師の有能なボディーガードになるようなものです。

ただ、スポーツを宗教か何かのように誤解して、きれいごとの祭壇に祭り上げてしまうと、大切なものが見えなくなる、というお話です。

ですから、オリンピック委員会が腐敗するなんてのは、当たり前のことですし、スポーツの試合に八百長がつきものなのも、今に始まった話ではありません。

公明正大できれいなスポーツを望むのなら、常に風通しを良くしてガラス張りにし、短期間で権力が入れ替わるように工夫をする必要があります。

それに、テレビやメディア、つまり利権や政治とは一定の「距離」を置く必要があるでしょう。

あまりメディアとべったりになると、オリンピックの二の舞いを演ずることになります。

日本ではJOC(日本オリンピック委員会)の不正が暴かれましたが、あれは氷山の一角、というよりはスケープゴートで、腐敗の本丸であるIOC(国際オリンピック委員会)の闇はさらに深く、マフィアも顔負けと囁かれています。

ネットでは、パリ五輪の開会式の評判が悪く、バチカンの枢機卿までもが連名で抗議文を送り、オリンピック委員会に正式謝罪を求めています。

キリスト教を揶揄し、血塗られた殺戮の歴史を正当化し、LGBTQを主役に祭り上げる、といった演出が批判されているのです。

しかしながら、見方を変えれば、あの開会式のパフォーマンスはオリンピック委員会の偽善的な本質といかがわしさを正直に表現していたわけですから、ある意味「良心的」だったのかもしれません。

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