なぜ「定食も単品も選びようがない日本」になったのか?
与党も野党もそうですから、では単品メニューをというのはどうでしょうか。日本の政治の場合はそうした選択肢はないわけです。特に最近は、「小さな政府論から維新が気になっていたが、万博難航でドン引き」だとか「自民党にお灸をすえたくて立憲支持だったが共産と親和でドン引き、ついでにその泉健太代表は乃木神社の歴史的背景を知らないというので驚愕」というような感じで、単品も選びようがない感じです。
そうではあるのですが、非常に率直に考えてみれば、今の日本の選択できる政策の範囲は非常に狭いと思います。
外交は親米+親西側を軸に、それでも中国やロシアとは付かず離れずに利害を守り、基本は軽武装で専守防衛。エネルギーは長期的には再生可能の比率を高めるが当面は原発部分稼働でコスト抑制。世代間対立、地方の集約は中間点の何処かに着地。空洞化の抑制、イノベーションの再活性化などは常識的な策から3割増程度へ…というような「落とし所」は発見できるはずだからです。
ですが、そのような「ズバリの落とし所」を堂々と主張する人はいないわけです。
例えば、野党のいう辺野古反対(=普天間継続)、原発ゼロ(=化石燃料モクモク)というのは極端に過ぎて話になりません。保守にしても、枢軸日本の名誉回復(靖国参拝というのはそういうことで、孤立を招く利敵行為です)とか、選択式夫婦別姓反対(家父長制文化の原理主義)など、どう考えても「ドン引き」になる話ばかりです。
そのような極端な激辛とか、スパイスてんこ盛りでしか集票ができないわけです。これではまるで、銃規制と中絶問題、あるいはイラン憎悪とか南部国境閉鎖などという極端な話で「分断ごっこ」に明け暮れるアメリカのようです。
では、日本の場合もアメリカのように、価値観の分断が起きているのかというと、どうもそうでもないようです。日本とアメリカの政治風土を比べてみると、どうも前提から思考過程から、何もかもが違っているように思います。
では、日本の政治風土には何があるのでしょうか。今回は、総裁選と総選挙という政治の季節を前提に、特に「自民党の保守」とはなにか、少しこの点を掘り下げてみようと思います。ただ、網羅的な分析というのは、私の手には余りますので、とりあえず気づいた点について展開してみたいと思う次第です。









