竹中平蔵、靖国参拝。日本型保守主義の呆れた本質
例えば、竹中改革について、彼が派遣業を自由化したので「氷河期世代が貧困に陥った」という解説がありますが、これは違うと思います。本来は、2001年の時点で、どんどんDXをやってソフト型の産業のイノベーションをやり、準英語圏入りするという選択肢はあったのだと思います。
ですが、地方名望家はそれを望みませんでした。経団連企業も同様でした。ならば、日本語と紙とハンコによる非効率な「事務」という作業は捨てられないわけです。そうなると、連結決算で収益を出すには、少なくとも日本の本社管理機構の存在意義を出すにはコストダウンが必要だったのでした。決して冷酷な資本の論理や、曖昧な概念である新自由主義から派遣が導入されたのではないのです。
事務の派遣労働とは、紙とハンコと日本語を維持するという絶望的な保守カルチャーを、まるで無形文化財のように続けるための方便として導入されたのでした。そこに日本型保守主義の絶望的な側面があるのだと思います。
日本型保守の奇妙なところには、防衛の問題もあると思います。いわゆる日本会議系と言いますか、例えば靖国参拝に熱心な人々は、親米です。ですから、米国が日本の防衛を担い、軍事プレゼンスを維持していることを歓迎しています。本物の国粋主義であれば、自主防衛に向かうのが正道ですが、それを彼らは志向しません。
自主防衛を志向しつつ、東条や白鳥の合祀されている靖国参拝を続けては、世界で孤立してしまいます。ですから、アメリカに瓶の蓋になってもらい、その瓶の中の「人畜無害なノスタルジー」として靖国参拝を続けているだけなのです。これは、愛国主義でも何でもないと思います。冷静に見れば現状追認と、バランス感覚ということになりますが、本質を見抜かれると国連や西側からのキックアウトもされかねない綱渡りとも言えます。
繰り返しになりますが、経済に関しても似たような「ねじれ」があるわけです。国内の改革はやらない、イノベーションも収益の源泉も国外、国内市場を外資に蹂躙されるのも全くお構いなし、という政策は異常そのものです。冷静に考えたら、国を売っていると批判されてもおかしくないと思います。
ですが、国内の改革はしたくないのです。極端なDX、極端な多様性の実現、平等で個人の尊厳が認められる社会が到来したら、年長男性の心理的権力行使はできなくなります。だから彼らは国内の改革はやりたくないのです。だから新しい部分はGAFAMの草刈り場になっても平然としていられるのだと思います。









