「明太子は惣菜だ」日本で初めて辛子明太子を作った「ふくや」の社長が特許を取らなかった理由

 

ルーツは創業者が幼少期に釜山で食べた「庶民のおかず」

さて、では、そもそもベーリング海やアラスカ湾産、あるいは、国産であっても北海道産のスケトウダラを使った食べ物が、なぜ福岡の名物になったのか。

それは、明太子専門店「ふくや」の創業者となる川原俊夫という人物の生い立ちにきっかけがある。

川原は、大正2年、朝鮮半島の釜山に生まれた。

明治9年の日韓修好条約以来、釜山には日本の銀行や商社が次々に進出、やがて、日本と満州を結ぶ拠点になっていった港湾都市だ。

日本統治時代に、渋沢栄一が主導して、釜山からソウルまでの鉄道を敷設しており、釜山港は大きな物流拠点となり、貨物倉庫などが立ち並ぶようになった。

大正初期には、その港湾都市に2万5,000人以上の日本人が暮らしていた。福岡出身の川原家もその一員で、現地の日本人向けに海産物や食品を売る「富久屋」を営んでいた。

釜山では、漬物や乾物などと一緒に、たらこの塩辛をニンニクや唐辛子で味付けして熟成させたキムチが売られていた。高価なものではなく、焼いて弁当に入れたりする庶民のおかずで、川原も子供時代によく食べたらしい。

朝鮮語でスケトウダラのことを「明太(ミョンテ)」と言うそうだが、現地の日本人は、日本語の音読みにして「メンタイ」と呼んでいたようだ。

釜山で知り合った妻・千鶴子と結婚した川原は、昭和19年に戦地へ赴いたのち、沖縄の宮古島で終戦を迎え、2年後、満州から引き揚げた妻子と博多港で再会する。

福岡市中心部の博多、天神地区は、B29の爆撃によって焼け野原だった。

混乱のなかで、川原はまず水あめを買い占め、闇で駄菓子屋に流した。食料配給制の時代、みんなが甘いものに飢えていたので、儲かったらしい。

それを元手に、歓楽街である中洲にオープンした「中洲市場」に入居。食品卸問屋「ふくや」を開業した。商才があったようで、たちまち中洲の店々を顧客にしてしまい、数々の飲食店の特約店になった。

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