行列がたびたび西鉄電車を止めてしまうという騒ぎに
『味の明太子』は大ヒットした。
中洲の飲食店がメニューとして出すようになったことで広まり、出張で福岡へやってきたサラリーマンが、土産に買って帰る。なかには政財界の人間もいて、大阪の政財界に飛び火、ある日、大阪のキャバレーから「お歳暮用に300箱」の注文が入ってさらに話題になった。
それまではトラック輸送だったが、昭和39年に東海道新幹線の東京~大阪間が、昭和50年に山陽新幹線の岡山~博多間が開通すると、明太子は全国的にブレイク。
東京や大阪のデパートから、明太子を卸してほしいという依頼が入るようになったのだが、川原は「明太子の卸売りはしない。生ものだから責任がとれない」と断っていた。
それで、東京や大阪のデパートの社員たちが、新幹線ではるばる福岡まで買いに来て、大量に抱きかかえてとんぼ返りし、その日のうちに売り場に並べて売っていたという。
「ふくや」は、中洲のほかに支店を出したが、100メートル以上の行列ができて踏切にあふれ出し、たびたび西鉄電車を止めてしまうという騒ぎになった。
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