「言葉の不自由な日本人」への配慮のおかげで私は避難できた
途中、警察か消防の人が外にいると危険だからビルに逃げ込めといい、近くのアパートに入れてもらいました。そのうちほかの避難者も何人か入ってきて、臨時の避難所になったのですが、間もなく地響きのような音がして、生暖かい粉塵まみれの空気が入ってきました。南棟が崩落したと話しています。
NYが狙われている、ここにいては危ない、ということで、一緒に避難していた約10人が一緒に外に出て、近くの船乗り場から筏船のような船に乗ってスタッテン島に逃げました。
現地ではボランティアの人が水や軽食を用意してもてなしてくれますが、そこでは夜を明かせないことがわかり、コミューター電車で隣のジャージーシティに向かいますが、ホテルはどこもいっぱい。
結局、消防署で一息入れ、仲間のうち家族連れの人はそこで止まり、私を含めて独り身のものは近くの高校に送ってもらい、そこのエントランスで赤十字が用意してくれたパイプ・チェアーと毛布で一晩明かしました。
私一人では到底ここまでたどり着けなかったのですが、一緒に逃げてくれたアパートの住人がその都度私に情報を提供してくれて、「言葉の不自由な日本人」とみて助けてくれました。
まだスマホもなく、一部携帯電話はあったのですが、基地局のWTCがやられたために携帯も使えず、情報のなさが不安をより大きくしていました。特に言葉の不自由な外国人には、この情報が死活的に重要です。
翌日、アパートの住人の青年が、マンハッタンに入る電車が午後には動くとの情報をくれ、彼が一緒についてきてくれて、なんとかマンハッタンのペンステーションにたどり着けました。マンハッタンにはかつて勤めていた会社があり、以後そこで世話になりました。
しかし、困ったのはいつ飛行機が飛ぶかわからなかったこと。航空会社に頼んで飛ぶようになったらホテルまで連絡をもらうことにしたのですが、飛ぶ1時間前に連絡があり、そこから車でJFKに向かっても1時間近くかかり、間に合いません。これを何度か繰り返し、結局、いちかばちかであらかじめ空港に行き、空席待ちをしてやっと飛行機に乗れ、帰国がかないました。









