前回の記事でオイルショックから日本を救った日銀総裁はマスコミ受けが悪かったというお話を紹介した『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』の著者で時代小説の名手として知られる作家の早見俊さん。今回も続編として、マスコミ受けしない前川氏が総裁になった理由、そして彼のオイルショック時の行動について紹介しています。
大平正芳の私邸を極秘に訪ねた日銀総裁、前川春雄
マスコミ受けのしない前川が総裁になったのは、森永の高評価でした。森永は副総裁として職務に尽くす前川の仕事ぶりを見て、時の首相大平正芳に強く推薦したのです。大平にとって森永は大蔵省の一年先輩、しかも尊敬する先輩で、全幅の信頼を置いていました。大平は森永が推薦する前川なら間違いないと日銀総裁に任命し、第二次オイルショック後の多難な金融政策の舵取りを託します。
第二次オイルショックは1979年一月のイラン革命が引金となって起きました。パーレビ国王の政権が打倒され、ホメイニ師を最高指導者とする共和国政府が樹立されます。パーレビ政権の庇護下にあった石油メジャーもイランから撤退し、世界第二の産油国であったイランの石油生産は大幅減となります。ホメイニ政権は資源保護を目的に石油生産を減少、OPECも同調したため世界的な石油不足となりました。
第一次オイルショック後の大不況、狂乱物価を再現してはならないと前川は決意していたのですが、総裁就任直後、OPECが原油価格を値上げしました。さらには、アフガニスタンへソ連軍が侵攻します。国際経済、政治共に混乱の様相を呈しました。こうした情勢の下、年明けには電力会社が電気料金五十パーセント値上げの申請に動き、卸売物価指数は十九・三パーセントも上昇、まさしく第一次オイルショックと同じ輸入価格の上昇が国内物価急騰に繋がっていったのです。
打つべき金融政策は公定歩合の引き上げです。しかし、国会が開催され予算が審議されると、公定歩合引き上げは不可能となります。実は第一次オイルショック時も予算審議中の公定歩合引き上げを日銀は実施したかったのですが、政府と大蔵省に阻止された経緯があります。理由は公定歩合が引き上げられると予算案の組み直しが必要になるからです。予算の編成作業時の金利と異なれば予算を組み直さねばならなくなるため、大蔵省が承知するはずがありませんでした。
しかし、予算審議が終わる三月の末、とても待ってはいられないと前川は大平に直談判します。日銀総裁と首相が会談すれば金融政策で何か重要な決定がなされるのではと、マスカモに勘ぐられます。そこで、マスコミに気づかれないよう、1980年二月九日、前川は大平の私邸を訪ねることにしました。しかし、大平の私邸にはマスコミの目があります。幸い、大平の秘書官が隣に住んでいたため、前川は秘書官の家を訪ね、その後大平邸の裏門から入りました。
果たして、大平との会談はどうなったのでしょう。(つづく)
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