前回の記事でオイルショックから日本を救った日銀総裁のお話を紹介した『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』の著者で時代小説の名手として知られる作家の早見俊さん。今回の続編では、オイルショックと前川氏の人となりについて紹介しています。
オイルショックから日本を救った日銀総裁 前川春雄(続)
まず、第一次オイルショックについて述べます。
第一次オイルショックは1973年十月に起きた第四次中東戦争に起因します。十月六日、エジプトとシリアがイスラエルに攻め込み、その後イスラエルの反撃あって、国連の調停により休戦になりました。戦争は長期化しなかったのですが、イスラエルに反感を持つサウジアラビアなどの中東諸国は石油戦略でイスラエルとイスラエル支持国に対抗しました。
その具体策として石油輸出国機構(OPEC)所属の中東六か国が原油公示価格を一バーレル三ドルから五ドルに値上げすると発表、更にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエルとイスラエルを支持するアメリカ、オランダなどの親イスラエル諸国に石油輸出を禁止します。
こうして世界中をオイルショックが襲ったのです。当時の日本は田中角栄内閣でした。前年の七月に政権を発足させた田中内閣は、掲げた「日本列島改造論」が国民に支持されて、全国的に土地売買が激化していました。日銀は金融政策において緩和から引き締めに転ずるタイミングを逸しました。土地投機により物価は上昇、その最中にオイルショックが襲ったのです。日本は深刻なインフレと成りました。便乗値上げが起き、トイレットペイパーに代表される買い占め、売り惜しみが横行、世に言う狂乱物価となりました。
こうした国民生活を苦しみに陥れた轍を二度と踏むまいというのが、日銀と前川の強い思いでした。
前川が日銀総裁に就任したのは1979年十二月です。副総裁からの昇進でしたが、決して順当な人事だとは受け止められませんでした。本命視されていたのは、大蔵事務次官を経て日本輸出入銀行総裁を務めた澄田智で、澄田でなかったら総裁だった森永貞一郎の続投というのがマスコミの見立てだったのです。前川は日銀内のエリートコースである金融政策立案の企画ラインを経験していませんでした。彼は外国局などを歴任して国際派と見られていましたが、それは副総裁止まりを意味していたのです。
また、前川はマスコミに受けがよくありませんでした。新聞記者が夜自宅を訪問して取材する、いわゆる夜討ちにまったく応じようとしなかったからです。通常、マスコミ受けを考え自宅に入れて、時には酒を酌み交わしたりしてざっくばらんに取材に応じる政界人、財界人が多い中、前川は自宅での取材はお断りだと受付けませんでした。公私の区別をつけていたのです。新聞記者の目には取っ付きにくい、不愛想な人物と映っていたのでした。(つづく)
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