オーディオブックで“聴いた本”は「読んだ」と言えるか?読書好きの文筆家が聞いてわかった決定的な違い

 

■オーディオブック

では、オーディオブックではどうかというと、まったく止めません。止めることを自らに禁じているとかではなく、止めようという気持ちが起こらないのです。

もちろん、アプリのUIなどが一時停止をアフォーダンスしない設計になっている、という可能性もありますが、もっとラディカルな要因がそこにはありそうです。

たとえば、ローティの『偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性』を聴いていたときは、基本的にぜんぜんわかりませんでした。

第一に文が長い──複文が多い──ので、文の意味を取るのに精一杯であり、それ以上の構造を捉まえるのに頭がまわらない、という点があります。

第二に議論が長いので、それまでどんな議論が行われていたのかを随時忘れていき、議論の全体像を把握することができない、という点もあります。

なんにせよ、「わからない」ので、「それについて考えること」もできません。言い換えれば、ポッドキャストを聴いているときは「一家言モジュール」が随時起動していたのに対して、『偶然性・アイロニー・連帯』を聴いていたときは、そもそもそうしたモジュールが欠落しているので起動しようもない、という感じです。

結果、ポッドキャストを聴いているときのような「聴くことで、考えが生じる」ということがないまま、「ただ聴く、聴き続ける」という状態になってきます。

■難しい本を読む

じゃあ、それがネガティブなことなのかと言えば、別段そういうわけではありません。

たとえば、西田幾多郎の『善の研究』を読んだときは、まったくぜんぜんわかりませんでした。わからないままに、五里霧中を、一歩一歩前に進んだ読書だったのです。ともかく足を止めない。細かい意味にもこだわらない。前に進むことだけを意識する。

そういう読み方をしていると──これを「読んでいる」と呼べるのかは別途面白い議論ができそうです──、ある時点で「なんとなくわかる」感覚が生まれてきます。議論の骨子を明瞭に捉まえたわけでもなく、また自分の言葉で他人に説明できるわけでもありません。でも、西田が言わんとしていることはこういうことなのではないか、という「感覚」が育まれるのです。

西田幾多郎の著作だけではなく、哲学書の多くは同様の読み方がスタートになりますし、もっと言えば自分が不慣れな・新参者である分野の本を読むときも同じです。そういうときは、「わかる」ことに固執するのをいったん諦めて、ただ読むことをするのが最適解だったりするのです。

そういう「意味もわからずに読む」ということを続けていくと、どこかの時点で「わかる」が後からやってきます。遡及的に。

小さい理解を段階的に積み重ねるのではなく、「わからない」に身を浸しているうちに、急に「わかる」が相転移的に生じるのです。

逆に言えば、そうした「わかる」に至るためには、ある期間「わからない」に身を浸している必要があるのです。

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