■再びオーディオブック
オーディオブックで本を聴くと、強制的に上のような状態になります。一文の意味がわからなかったとしても、強制的にナレーターが次の一文を読み上げ始めます。その繰り返しで、どんどん本は前に進んでいきます(進んでいるのは自分なのか、本なのかはわかりませんが)。
そこでは、「些細なこだわり」は顔を出している余地がありません。「わからなくても、前に進む」というある種の乱雑さが発揮され、神経質さは引っ込まざるを得なくなるのです。
当たり前ですが、そういう聴き方で得られる「わかる」は、精読して得られる「わかる」とは、ぜんぜん違うものでしょう。オーディオブックで視聴了したからといって、「その本を読んだ」とは言い難いものですが、そんなことを言えば、私が『善の研究』を読んだと言えるのかも同様に微妙なところです。
「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉がありますが、ただ聴いているだけでも頭にしみ込んでいる要素というのはあるものです。
考えてみてください。誰かの語りを11時間40分聞いたとしたら、そこに何かしらのパターンや傾向を脳が知覚することは、ごく自然なことでしょう。たとえそれが3時間であっても同じです。聴くだけで捉まえられるものはたしかにあります。
よって、私の位置づけでは、難しい哲学書をオーディオブックで聴くことは、紙の本をわからないなりに読み進めるのと同じポジションにおけそうです。逆に、読みながら考えるような本の場合では、頻繁にストップせざるを得ないでしょうし、その際に「メモ」をどうしたらいいのかで悩むことになりそうです。
また、普段読書中に「メモ」を取らない小説などであれば、そうした悩みからは開放されますが、今後はもっと早く進めて欲しいという感じが強くなってきます。
そういえば、聴くことと比較してわかったのですが、私は小説を読むときめちゃくちゃ早くページを繰っているようです。おそらくそれは、単に速度が速いだけでなく、意味解釈する部分を省略している要素が関わっているはずです。つまり読み飛ばしている部分がある。
だから、読み上げの速度を1.2倍にすればいいんです、という解決策ではマッチしません。そもそもやっていることが違っているからです。
■さいごに
というわけで、オーディオブックという新しいメディア体験が得られたことで、結果的に「本を読むとはどういうことか」についての理解が詳細になりました。なかなか楽しい体験です。
よって、しばらくはオーディオブック・ライフを送りたいところなのですが、その割合が増えるほど、ポッドキャストを聴く時間と音楽を聴く時間が減ってしまいます。
個人的には後者が強い懸念点で、音楽がない人生なんて、という感じで生きているので、どこかでバランスを取る必要はありそうです。
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