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トランプ関税の“25%”が可愛く見える。戦前の日本がアメリカ車に最大70%もの関税を課していた理由

「トランプ関税」により、従来の2.5%から15%に引き上げられることとなった日本からアメリカへ輸出される自動車の関税率。米国からの一方的とも言える措置に業界団体からは怨嗟に似た声も上がっていますが、戦前は事態が「真逆」だった事実をご存知でしょうか。今回のメルマガ『大村大次郎の本音で役に立つ税金情報』では元国税調査官で作家の大村大次郎さんが、かつて日本が輸入車に最大70%もの高関税を設定していた歴史的背景を解説。さらにこの「事実上の米国車締め出し」が太平洋戦争の遠因になったとの見方を記しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:今と正反対だった!戦前の日米関税戦争

トランプ関税が「良心的」にすら感じる。現在とは正反対だった戦前の日米関税戦争

戦前の日米関税戦争についてお話したいと思います。

ご存じのように、現在、アメリカのトランプ大統領は輸入品に高率の関税を課そうとしています。日本に対しては自動車がターゲットにされ、現在でも綱引きが続いています。

現在の日米貿易においては、自動車が大きなウェートをしめています。

といっても、日本がアメリカに一方的に輸出しており、アメリカから日本に輸出される自動車は微々たるものです。

かつて憧れの的だった「アメ車」は、もはや日本では、クラッシックカーがマニアの間で取引されている程度です。アメリカ製の新車を、日本でお目にかかることはめったにありません。

そして、現在の日米貿易は日本の大幅な黒字(輸出超過)なのですが、そのほとんどが自動車なのです。

が、戦前は今とはまったく逆でした。

アメリカ製の自動車が日本の市場を席巻したため、日本は輸入自動車に高い関税を設定していました。

それでもアメリカの自動車メーカーは、日本に組み立て工場をつくるなどしたため、日本の自動車市場はずっとアメリカ車が独占する状態でした。

業を煮やした当時の日本政府は、関税をさらに上げ、日本での組み立て工場を事実上、禁止するなどして、強引にアメリカ車を締め出したのです。それが、日米関係が悪化する要因の一つになったのです。その経緯をお話ししましょう。

そもそもアメリカという国は、世界最初の自動車大国でした。そして、自動車を世界に広めたのは、アメリカなのです。

ガソリン自動車は明治3(1870)年に発明されています。ヨーロッパやアメリカの企業はこぞって、この新発明を実用化しようと試みました。が、価格と性能の面で、なかなか、一般の生活に採り入れられるほどの物はつくれなかったのです。その壁を破ったのが、アメリカでした。

明治41(1908)年にはアメリカのフォード社が、T型フォードの大量製造を開始したのです。

フォードの製造方法は、オートメーションの元祖とも言われ、画期的なものでした。フォードは、このオートメーション化により、自動車の価格を劇的な引き下げることに成功しました。

第一次世界大戦後には、T型フォードは今までの価格の半分以下、850ドルまでになっていました。これは一般の労働者でも十分に手が届くものです。自動車は、一気に普及することになりました。

第一次大戦の戦争被害を受けなかったアメリカは、新しい大国として繁栄を極めようとしていました。石油資源が豊富で、国土の広いアメリカでは、自動車の需要が他の国よりも大きかったのです。これにより、アメリカは世界に先駆けて、自動車を国民生活の中で使うようになったのです。

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生産台数は米国に次ぐ世界第2位。実は自動車大国だった戦前日本

一方、日本も、早くから自動車には関心を持っていました。

日本で自動車が本格的に普及したのは戦後というふうに思われがちです。が、戦前の日本も、実は自動車大国だったのです。特に、陸軍は自動車の導入に力を入れており、トラックの生産台数はアメリカに次いで世界第2位を誇っていたのです。

日本に初めて自動車が入ってきたのは、明治32(1899)年のことです。皇太子(後の大正天皇)のご成婚祝いに、アメリカの日系移民たちがプレゼントしたのです。

しかし、これは運転できるものがおらず、試運転のときにブレーキの操作を誤って三宅坂のお堀に落ちました。これは日本最初の自動車事故として記録されています。

しかし日本人は、自動車に相当関心を持っていたようで、大正元年には298台しかなかった自動車が、大正10(1921)年には2万7,526台になっていました。
10年間で100倍増です。

交通事故も増え、昭和元(1926)年には交通事故死は175人、負傷9,679人でしたが、昭和10(1935)年には死亡525人、負傷1万8,684人と急増しています。

また戦前すでに救急車もすでにありました。昭和8(1933)年、横浜の山下消防署に、中古のキャデラックを改造した救急車が配備されました。翌年には、赤十字東京支社、名古屋の中消防署に配備されました。車内には寝台があり、止血管、ヨードチンキなどが備えられており、車体は白地に赤線が一本入っており、だいたい今の救急車と似たような形でした。

また東京に初めてタクシーが走ったのは大正元(1912)年です。数寄屋橋タクシーという会社が始めたもので、最初はわずか2台しかありませんでした。しかも新橋駅上野間を往復するだけでした。

しかしそれからタクシーは増え続け、関東大震災のあった大正12(1923)年ごろには東京市内に500台ほどが走り、昭和7(1932)年には1万台を超えていました。

昭和9(1934)年には、タクシーにメーター制が取り入れられました。タクシーの台数が増えるたびに、価格競争が激しくなったために、メーター制となったのです。これは大阪の業者が始め、すぐに東京にも導入されました。初めの2キロが40銭、その後は800メートルごとに10銭加算されるようになっていました。

当時のタクシーは客席は広く、運転手の背もたれに仕舞われている補助席2席を使えば、客は5人乗れた(助手がいないタクシーは6人)。そのため、4、5人で割り勘にすれば、市電より安くなることも多く、タクシーは市民の足として普通に使われていたのです。

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性能が悪かった日本車

このタクシーなどで使われていた車は、実はほとんどがメリカ車でした。

戦前の日本が、アメリカ車だらけだったというのは、いささか奇異に映るかもしれませんが、当時のアメリカ車は日本車よりもはるかに性能がよくしかも安価だったのです。

明治維新で近代化を推し進めるようになってまだ日が浅い日本は、アメリカに比べれば自動車製造業の発展はかなり遅れていたのです。

日本も、自動車に比較的早くから製造に着手していました。明治37(1904)年に山羽虎夫という発明家が蒸気自動車を、明治40年には内山駒之助という発明家がガソリン車を作っています。

フォードがT型フォードを開発した2年後の明治43(1910)年には、日本陸軍が大阪砲兵工廠で自動車の試作を開始しました。そして翌明治44(1911)年には2台のトラックが完成しています。これは「甲型自動貨車」と名付けられ、シベリア出兵の際には、23台が派遣されています。また当時すでにトヨタ、日産などもすでに自動車の製造に取りかかっていました。

軍部では、自動車を重要な軍需産業と位置付け、大正7(1918)年には軍用自動車補助法という国産メーカーを支援する策を打ち出していました。これは、自動車を製造したり、国内製自動車を購入した場合に、戦争のときに軍事転用するという条件で、補助金を支給するというものです。これは、アメリカ車の侵攻を食い止めるためです。

また当時、日本は輸入自動車には50%もの高い関税を課していました。現代日本では、アメリカが日本車に25%の関税をかけるかどうかで大騒ぎしましたが、戦前の日本はその倍の関税をアメリカ車にかけていたのです。

この高い関税のため、アメリカのフォード社、GM社は、日本で組み立て工場をつくることにしました。自動車の部品にも項目ごとに関税は課せられていましたが、一番高いエンジンの関税でも35%であり、完成車に比べれば低かったのです。そのため、部品を日本に持ちこみ、それを日本の工場で組み立てることにしたのです。

今、日本の自動車メーカーがアメリカや世界中の国々で行っていることを、戦前のアメリカの自動車メーカーは日本で行っていたのです。ちなみに現在、アメリカの自動車メーカーは、日本に工場は持っていません。

つまり、戦前の日米の自動車の輸出入状況は、現在とまったく逆だったのです。

フォード社は、大正14(1925)年、現地法人の日本フォード社をつくり日本で製造販売を開始しました。また昭和2(1927)年には、GM社も同様に日本上陸を果たしました。両社は、ノックダウン方式による大量生産を開始、そのため日本の自動車市場はほとんどこの二社で占められることになりました。

このアメリカ車の日本進出により、日本で育ち始めた自動車メーカーは壊滅的な打撃を受けてしまったのです。昭和5(1930)年から昭和10(1935)年まで、日本の自動車メーカーの普通乗用車の生産台数はゼロであり、トラックや小型乗用車を細々と作っていたにすぎませんでした。

そんなとき、日本の自動車産業の命運を左右するある重大な出来事が起きます。

昭和7(1932)年の熱河作戦の際に、陸軍は初めて本格的な自動車部隊を投入しました。熱河作戦では兵站が長いため、自動車による補給確保を試みたのです。

この熱河作戦では、日本製のトラックのほかに、アメリカのフォード、シボレーのトラックも大量に購入して投入されました。フォード、シボレーのトラックは、日本製よりもはるかに頑丈で性能もよかったのです。そのため部隊では日本製のトラックが支給されると残念がる、という状況が生まれていました。

これを見て、日本陸軍は「これはヤバい」と思ったのでしょう。アメリカ車締め出し政策を強化することになるのです。

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アメリカ車を締め出す

当時、すでに日本とアメリカとの関係は決して良好ではなありませんでした。そのアメリカに軍用車を依存していれば、将来、大きな痛手を受けるかもしれません。そのため、国内メーカーを育成するために、昭和11(1936)年に自動車製造事業法という法律をつくったのです。これは「国の許可を受けた事業者しか自動車を製造販売してはならない」という法律です。

そして、許可を受けられる条件に「日本国に籍のある会社」という項目がありました。つまり、この法律は、事実上、「国内の自動車会社しか日本で製造販売を出来ない」というものでした。

事実上のアメリカ車の禁止ともいえ、現在の関税政策などよりも、はるかに強力な締め出し政策です。

この法律では、さすがにアメリカ車の禁止とまでは謳えず、アメリカの自動車会社にも一定の配慮はありました。既存の外国企業には、製造の継続は認められたのです。が、工場の拡張などは認められませんでした。

また同年、輸入自動車の関税が大幅に引き上げられました。完成車の関税は、それまで50%だったのが70%に、エンジンの関税はそれまで35%だったのが60%にされたのです。そのほかの部品も、項目ごとに大きく引き上げられました。

この関税引き上げにより、フォードやGMは、現地生産のうまみも大きく損なわれました。両社は日本での先行きに不安を覚え、相次いで撤退しました。そして日本政府は、フォードやGMの工場を買い取りました。戦前の日米自動車戦争は、現代とは逆で、日本がアメリカからの輸入をシャットアウトしたのです。

当時、アメリカにとって、自動車は基幹産業の一つでした。その産業が、日本政府によって大きな制約を受け、事実上、日本市場から締め出されたのです。

当然のことながら、日米関係のさらなる悪化を招きました。太平洋戦争の遠因の一つともいえるでしょう。

(本記事はメルマガ『大村大次郎の本音で役に立つ税金情報』2025年8月16日号の一部抜粋です。「初心者のための節税講座~税金還付の三つのルート~」「太平洋戦争の原因は税金?」を含む全文はご登録の上ご覧ください。初月無料です)

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