「各教科のトップレベル」ではない正規の学校の教員
もう1つは、高校入試の目的は選抜であり、全員が100点になるような入試問題では選抜ができないので、理屈の上では中学のカリキュラムの範囲内で収まるようにしながら、難問奇問を出題することになります。こうした入試対策の学習を行うには、基礎学力がある程度ないと効果がありません。ですが、中学までの義務教育では習熟度別の学級というのは原則として禁じられています。
ということは、平均的な内容の授業を全員に対して行うことになります。泳げない子を足の立たないプールに入れては危ないので、400コンメを秒単位で競うような子でも、90センチの水深のプールに入れる…みたいな話です。ということは、事実上は学校では入試学習はできないことになります。
ということで、高校側は独自の入試をやるし、その入試で合格点を取る方法は、学校では教えてもらえない、となるわけです。そこで塾というものが、社会的に不可欠になり、子どもを持つ親は「二重出費」を強いられます。いくら、教育を無償化しても、最後にはこの塾の費用がバカにならず、親の家計を圧迫します。
その結果として、少子化が加速することになるし、同時に塾などに費用がかけられる世帯だけが、偏差値の高い学校に子どもを送ることができるわけです。そうなると悪しき「教育水準の世襲と階層化」が起きてしまいます。
ちなみに、この「教育水準の世襲」というのは、単に機会の不平等という社会的不公正を招くだけではありません。硬直化した現状維持型の子どもを再生産することにもなり、一種の貴族化を生み、国の衰退を加速させます。
教育人材の偏在というのも問題です。塾は無認可、塾教師は無資格ですが、その代わりに完全な競争社会でもあります。ですから、子どもを合格させるという非常に狭いスキルではありますが、良い教師が成功する社会でもあります。
そうした人材は、もしかしたら正規の教員になったらより深いコミットを子どもたちにして、子どもたちを良い方向に鍛えるスキルを発揮するかもしれません。
ですが、正規の学校の教員というのは「四大を出て教職免許を取り、採用試験に合格した」人が中心です。つまり、各教科のトップレベルではないわけです。
また、現在では教員がブラック職種ということになっていますから、「でもしか先生」つまり「教員にでもなろう」かあるいは「教員しかなれない」先生ではなく、「しか先生」つまり「教員にしかなれない」先生が中心の世界になっています。
本当は高校教師には理科系の院卒を持ってくるのがいいわけですが、これは四大卒の終身雇用教員集団がブロックしており、簡単には実現しません。そうなると、院卒や院卒崩れの優秀な人材は塾に流れるわけです。一方で、安い塾の場合は学生バイトでクオリティも怪しい場合もあります。
いずれにしても、全体としては、人材の配置が妙なことになっています。この学校と塾の二重教育というのは、様々な意味で日本の教育を劣化させていると思います。
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