先日宮崎で行われた講演会で、日本講演新聞の水谷もりひと編集長がおすすめしていた、三浦綾子さんの「泥流地帯」という本がある。ネタバレに触れるので、読もうと思う人はこのメルマガを読むのはここまでにして、作品を読んでから続きを読んでほしい。
時代は大正。北海道に移住してきた村でのお話。何も育たなかった不毛の地を三十年かけて開拓しながらなんとか生活を続ける人々。その生活は極度に貧しく入口が莚戸の家もある。そんな村のある家族の物語。真面目に丁寧に働き続けるが生活は苦しくなるばかり。一方で誰かの弱みにつけ込んで金儲けをするものがどんどん暮らしが豊かになる。
それでも真面目に丁寧に生き続けた主人公の家庭では、子どもたちが大人になりそれぞれ仕事を持ち、十数年かけてようやくほんの少しだけ未来に明るい兆しが見え始めた。がその瞬間、山津波が起こり、開拓したすべての土地と増築したばかりの家、優しく真面目に生きてきた人々の命を奪っていく。
狡猾で、人の弱みにつけ込むような人が、豊かになり生き残る一方で、優しく、真面目で、親切な人たちが、ささやかな幸せを手にすることなく、何の報いも受けずに亡くなってしまう。
主人公は、亡くなった祖父と妹の亡骸を前に理不尽さと悔しさに打ち震える。
「どうして、優しくて親切な人たちばかりが何の報いも得ることなく悲惨な目に遭い続けなければならないのか」
そのときに、祖父が生きていたらどういうだろうかということを考えるんですね。
そして結論は、それでも優しく、真面目に、丁寧に生きるだろうというもの。
何を手にしたのか、夢を実現したのか、人生の中でどれほど思い通りいったのか、儲かったのか、得をしたのか…そういったことが重要ではなく、「私はこうありたい」という人間像を、周りはどうであれ、運命がどうであれ、変えずに生き続ける。
そういう生き方に人としての美しさをたまらなく感じる。そんな作品なんです。
挨拶をするのが大事なのは、それをする人が幸せになれるからでもなければ、いい思いができるからでも、その方が得をするからでもないーーー(『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』 2025年8月22日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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