「挨拶をしなさい」「履物をそろえなさい」子供の頃、誰もが一度は言われた言葉ではないでしょうか?しかし、なぜそれをするのか考えたことはありますか?自己改革小説の第一人者である喜多川泰さんは、自身のメルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』の中で、挨拶をし、丁寧に生きることの意味について探っています。
『いただきます』言ってる?
そもそもどうして
「挨拶をしなさい」
「履き物を揃えなさい」
「掃除・片付けをしなさい」
「凡事徹底」
ということを教えるのか。
今の時代(昔も少なからずそうだったかもしれないが)親の子どもに対する教育はほとんどすべてが「子どもの幸せのために」に紐づいている。
つまり、そういうことを守れる人の方が将来幸せになれるから、親はそれをやらそうと思うし、子どもは「それなら」とそれをやろうとなる。
ところが、例えば履き物を揃えるとか、掃除をするといった習慣は、続ければわかるが、そう言った習慣を持っている人の方が「損をしている」と感じる場面が結構多い。みんなは全くそういうことを気にしていないのに、自分だけが時間と労力を費やして、真面目に生きている。それによって報われることがたくさんあればいいのだけれどもそうでもない。
挨拶もしない、履き物も揃えない、掃除・片付けをしないで逆にゴミのポイ捨てなんて平気で行うそんな人の方がむしろ自分よりも自由気ままに人生を楽しんでいるように見えることすらある。そうなると自分ばかり真面目に生きるのがバカらしくなる。
そういう経験をしたことがあなたにもあるかもしれない。
つまり「幸せになるため」や「損得勘定」でこれらを自分の人生に取り入れようとしてもそれを身につけ、一生それを続けるのは難しいということだ。
人生の幸せや、欲しいものを手に入れること、損得といった価値観と、これらの凡事徹底は関係性が近いようには見えない。
では、やらない人になるのか。
とりわけ子どもの頃はやっていたけど、大人になったらもうやらなくていいのか、ということになる。
大事なのはそれをすることでどんな得があるかじゃない。
得することがあろうがなかろうが「自分はそんな人でありたい」と思える人になることだと思う。
そう思い生きる人は、家族の、地域の、国の、人類の宝だ。
この記事の著者・喜多川泰さんのメルマガ









