だが、たとえ天皇は政治に関与せず、民を直接統治していなくても、将軍に官位を与えるなど、権威の源泉として特別な位置を占めていた。
現実に政治を行う将軍や大名の権力と、それを超越する天皇の権威は、はっきり区別されていたのだ。
そして、ここに「一君万民思想」が成立する重要な条件があったのである。
江戸時代には、国学や水戸学によって尊皇思想が唱えられるようになる。
そして幕末には、これが討幕の理念と結びつく。
そこで最も重要な役割を果たしたのが、吉田松陰だ。
吉田松陰は一君万民思想を単なる天皇崇拝ではなく、既存の政治体制を批判する原理へと発展させた。 つまり、天皇と民の間に幕府や藩が存在している体制は一君万民の理念に反するというわけで、これが討幕運動を支える理念となったわけである。
だが、吉田松陰は討幕を見ることなく死んだ。
そして、一君万民思想を受け継いで維新を成し遂げたはずの明治政府も、結局は薩長藩閥が幕府の代わりに天皇と民の間に入り込んだだけで、しかも華族・士族・平民という、新たな身分制度まで作ってしまった。
そこで、これは一君万民に反するということで自由民権運動が勃興するわけだが、これを明治政府はあらゆる手段を使って弾圧していき、自由民権運動も結局は挫折してしまったのである。
そのような自由民権運動の勃興から挫折までの経緯は、『大東亜論』第2部・第3部で描いた。
その作品中では、大久保利通が滅多切りにされて暗殺される場面に「あらゆる手段を講じて政敵を抹殺して権力を私し、日本の針路を決定的に誤らせた男の、見るも無残な最期であった」という辛辣なナレーションをつけている。
歴史的評価の分かれる人物に、これは言い過ぎかと思わないこともなかったが、やっぱりこれでよかったと思う。 大久保利通の玄孫という血筋を誇っているのが麻生太郎だと思うと、なおさらである。
明治維新によっても達成されなかった一君万民だが、これを日本史上初めて法的に担保したのが、実は日本国憲法なのである。
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