日本国憲法は第1章、第1条から第8条までが「天皇」である。 これが「一君」の規定だ。
そして第14条第1項には、こうある。
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
すべての国民が差別されない。 平等である。 これが「万民」の規定だ。
日本国憲法の第1章と第14条1項はセットになっていて、これで「一君万民」が担保されている。 おそらく誰も指摘していないと思うが、わしはそう解釈している。
もちろん日本国憲法はGHQが作ったものだとか、第9条には問題があるとかいうことは言うまでもない。 しかしGHQの意図がどうあれ、事実として第1章と第14条がセットで一君万民を担保し、国体を守る構造になっていることは間違いないのである。
本当なら、GHQが作った憲法によって日本史上初めて日本の国体が法的に保障されたなんてことは、全く誇らしくない。
だが、そうやって保障された国体を日本人が自ら破壊して、天皇と民の間に新たな貴族階級を作ってしまったのが今回の改正皇室典範なのだ。 これはGHQに憲法を作られたということよりも遥かにひどい恥辱だ。 日本人の劣化、ここに極まれりである。
再度いうが、わしは基本的に人間は「平等」でなければならないと思っている。
だが「平等」というと、必ず「人権」と結びつけられる。 しかしわしはそれには違和感がある。
たびたび主張していることだが、わしは「人権思想」というものを信じていない。
全ての人間は生まれながらにして「人権」を所有しているなんて言われても、人は誰もが何も持たずに生まれてくるものじゃないかとしか思えない。
だから、全ての人間が「人権」を持っているから「平等」だという説明には、全く納得がいかないのである。
しかもこの人権思想というものは、フランス革命に由来するものだ。 国王をギロチンにかけ、暴徒と化した民衆が、王の持っていた権利を略奪して作ったのが「人権」である。 これを直輸入することは、天皇を戴く日本には合わない。
日本の平等思想は、「一君万民思想」から来るものだと考えるべきなのである。
西洋近代の平等思想は、すべての人間が生まれながらに基本的な権利を持つという、極めて人工的な「自然権思想」だ。
日本の一君万民思想は、西洋の自由・平等思想とは異なる経路から封建的な身分制度を否定し、平等を目指そうとしてきたものであり、その価値にこそ気付き、それを尊重しなければならない。

せっかく日本国憲法によって保障された一君万民思想を、たかが高市早苗が、たかが麻生太郎が、ぶち壊そうとしている。
わしはそんな事態を決して座視することはできない。
今回の違憲訴訟は、「一君万民の国体」を守る闘いなのである。
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