多くのポーランド人が日本に救われた。知られざる1920年の感動秘話

 

われわれは何時までも恩を忘れない国民である

シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べている。

日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。

われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。

ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。

ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。

大和心とポーランド魂

何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

世話をした1人のポーランド夫人が語った所では、1人の男の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は不憫で涙が止まらなかった、という。

震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子供たちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。

4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児1人1人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たちを慈しんだ大和心に恩を決して忘れないポーランド魂がお返しをしたのである。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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