ホンモノ以上の実写感。孤高の天才画家、伊藤若冲の数奇な人生

 

絵を学ぶために鶏を飼う

画業に専念出来るようになってからは1,000枚とも言われる模写の日々が続きます。やがて、若冲は「絵から学ぶだけでは絵を越えることができない」と思うようになります。実物を描くことで真の姿を表現しようと思い立つのです。

生き物の内側に「神気」(神の気)が潜んでいると考えていた若冲は、庭で数十羽の鶏を飼い始めます。しかし、一時もじっとしていない画材を写生することはすぐに出来ず鶏の生態をひたすら観察し続ける日々が続きます。朝から晩まで鶏とにらめっこです。1年が経ち見尽くしたと思った時おのずと絵筆が動き出したそうです。その後鶏の写生は2年以上続きました。その結果鶏だけでなく、草木や岩にまで「神気」が見えるようになりあらゆる生き物を自在に描けるようになりました

この頃から、若冲は代表作となる「動植綵絵さいえ)」シリーズに着手しています。身の回りの動植物をモチーフに描き、完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となりました。そしてその大作はその後日本美術史における花鳥画の最高傑作となりました。

ちょうどその頃京都では12歳年下の写実主義で有名な天才画家・円山応挙が頭角を現します。応挙の人気は絶大で門弟1,000人という円山派が京の都の画壇を席巻します。一方、若冲は対象的に一匹狼の画家で朝廷や政権にコネもなく孤高の天才画家として知られていました。

1788年、72歳になった若冲を突然「天明の大火」が襲います。この大火事で彼の家も画室も焼失し大阪へ逃れました。私財をすべて失って生活は貧窮し70歳を過ぎて初めて生活の為に絵を描くほど貧乏になってしまいました。74歳からは京都に戻り、深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲しました。そして不幸は重なり、76歳の時にずっと援助してくれていた弟が他界してしまいます。

若冲は京の都で円山応挙と天才画家の名を二分するほど高名な存在でした。しかし晩年の若冲の日々は悲しみに満ちたものになってしまいます。ただ元来享楽的な志向がなかった彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適であったと伝えられています。

最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築いています。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て約10年がかりで完成したものです。境内の山がちな山林の敷地に現在もところ狭しとさまざまな表情をした羅漢さんを見物することが出来ます。

1800年、84歳の長寿で大往生するまで生涯独身を貫きひたすら絵を描くことにエネルギーを注ぎ続けた人生でした。

現在、石峯寺の境内には若冲の墓があります。また若冲のゆかりのある相国寺にも墓があり、藤原定家、足利義満などそうそうたる歴史上の人物と並んで眠っています。

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