アート・インタビューVol.2「腹にくる」美術作品とは?

2016.08.25
by gyouza(まぐまぐ編集部)
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アートインタビューの第2回は、株式会社東京美術倶楽部の代表取締役会長淺木正勝さんにお話を伺いました。第1回は東京美術倶楽部の活動や美術作品の歴史について触れてきましたが、今回は優れた美術品を見分けるコツや美術商の在り方についてのロングインタビューです。

【関連】アートインタビューVol.1 「自分が生きてる間だけは自分の文化にしておきたい」

丁稚奉公8年からのスタート。「腹に来る」作品との出会い

−まずは淺木さんとアートとの出会い、についてお聞かせください。

淺木:私は昭和16年12月16日、真珠湾攻撃のほぼ一週間後に生まれました。戦後、昭和35年に高校を卒業、そのまま父が創業した美術店で働いたわけではなく、他の美術店に住み込みで入りました。これが美術業界でのスタートになります。今の方にはわからないかもしれませんが、休みもなし、給料3千円でした。そこで8年半、店の主人の住居と店を往復するだけで、実家にも帰らず修行していました。これが美術商としての私の原点になっていると思います。修行を終えて、実家の美術店に入り、昭和59年に社長を引き継いで、現在に至っています。

住み込みの時は無我夢中でしたが、実家の美術店に入ってから、自分で美術商として考えるところが多々ありました。当時は前田青邨、東山魁夷、杉山寧といった錚々たる先生方が第一線で活躍されており、父の店ではそうした方々の新作展を開催したり、一方ですでに亡くなられていた横山大観、川合玉堂といった巨匠の展覧会も実施したりして、お客様の要望に幅広く応えるように、多くの先生方と付き合いがあったのです。そのことに疑問があって、私が社長になってからは、扱う対象を私自身が心の底から納得できる、いわば私の「腹に来る」作家と作品に限定して、個展や展覧会を開くようになりました。

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株式会社東京美術倶楽部 代表取締役会長淺木正勝さん

 

−「腹に来る」、いい言葉ですね。なんか今日のインタビューのテーマになりそうな気がします。その当初はやはり日本画が中心でしたか?

淺木: いいえ、時代の流れもありましたし、自分の好みを打ち出して、洋画も取り入れました。梅原龍三郎、中川一政、林 武、それに鳥海青児といった先生方です。

まだ社長になる前、東京美術青年会(東京美術商協同組合の下部に属する40歳以下の若手の組織)の理事長をしていた昭和50年代の始めには「食器展」を企画しました。食器だけの展覧会で、陶芸家の先生方に作陶を依頼しに全国を回りました。食器は焼き物の原点で、基本のデッサン的な要素が強く、大変興味深かったのです。たとえ有名でも、自分の「腹に来る」ことがない先生方には声をかけなかったので、周囲からプレッシャーがあったことを覚えています。

私は絵画を主に扱っていますが、工芸の方が世界に向けてアピールしやすいのではないかと思うのです。絵画、特に日本画は日本独自のもの、と非常に強く考えられています。私自身は、岩絵の具で描かれた日本画は世界に絶対に通用する、と信じているのですが、その魅力を世界に発信する力が作家、評論家、そして私たち美術商にも足りないのかもしれません。

そういう意味で、海外の作家や美術商は、自分たちの魅力をアピールする、売り込む術を熟知しているようです。日本人でも、例えば村上隆は、そういうことを理解した上で、日本の文化的要素を海外に打ち出して、スポンサーを獲得していますね。彼の作品のスケール感に惹かれている人も多いけれど、彼が作家としてすごいのは自分の作品を世界にアピール出来ていること。自分を訴える力を持っていることです。現代アートの世界には、その力が特に必要不可欠ではないでしょうか。

実際、現代アートは世界中で盛んになっています。そういう流れには反するようですが、私は伝統を重視し、そこから新たな創造性を発揮していくことが大切だと思っています。我が国には素晴らしい文化の歴史があり、貴重な文化財も伝承されています。今、お隣の中国で現代アートがもてはやされているのは、王朝の交代による戦乱から文化大革命に至るまでの歴史要因が、あの国の文化財を消滅、流出させ、混乱の中で地道な美術商も育って来なかったからでしょう。伝統が失われてしまえば、必然的に現代アートに飛びつくしかなかったのだと思います。

それでも、千利休のような人が現代日本にいれば、時代の状況は変わっているかもしれません。彼は今で言えば、現代アートの要素を持った天才だと思います。天才的な芸術家でありプロデューサーでもあって、生活雑器のようなものも芸術の高みに引き上げて新たな価値を生み出しています。近年では、岡倉天心でしょうか。そういう人物が現代にいないのは、ある意味、致命的なのかもしれません。現在の我が国には、本物と呼べる、圧倒的な力を持ったプロデューサー、優れた評論家で企画力に富んだ人物が不在なのだ、と私は思っています。

美術商として必要な「心眼」。

−いろいろな分野で今日本にはプロデューサーが足りていませんね。一方、淺木さんのお役目の美術商、その美術商の大切なお役目は真贋の鑑定だと思うのですが、いかがでしょうか。

淺木:作品の鑑定機関が確立され、美術品の流通が安定的に広がった反面で、個々の美術商自身が真贋を判断する力、鑑識眼が弱くなって来ています。私も若い頃はずいぶん偽物をつかまされたこともありました。そういう経験を積み重ねて、美術商は自らの眼を養わねばなりません。単に真贋を見極めるだけではなく、作家の持っている本質を把握し、同時に作品を通して自分自身の好みを確かなものにして行く、言い換えれば、「自分の心の眼を磨く」、ということが重要なのです。お客様はそれぞれの好みで美術品を購入されますが、美術商にもそれぞれの好みがあります。それを極めて行くことで、美術商の個性が生まれるのですから。

そうやって美術商が独自の眼を育てて行かないと作家も育っていかないし、愛好家やコレクターを啓発することもできません。最近の美術商は、私から見ると、そういう面が弱い、仕事の進め方が軽いように思えてならないですね。

−「心の眼を磨く」こと「自分の好みを確立する」ことについてもう少し、詳しくご説明頂きたいのですが。

淺木:いわゆる「心眼」ですが、目に見えないものを鋭い心の動きで把握するためには、日頃の訓練が大切だと思うのです。一流の作品、一流の人物と関わる中で、自分が真剣に対応できているかが問題になるでしょう。理屈で説明するのではなく、自分の心に直接訴えて来る何かを見つけることに意味があるのではないでしょうか。「胸を打つ」とか「腹に来る」とか、身体的な表現になりますが、そうした対象を増やしていくことが美術商にとって不可欠だと考えています。

−「心眼」は日々の勉強、鍛練、努力と経験の蓄積によるものなのですね。一方で作品を直接身体で感じる感覚を身につけるのは、そうとう難しいことではないでしょうか。

淺木:「心眼」を鍛えることと、作品を自分の身体で感じるようになることは、別のことではないのです。自分自身の作品の見方を自分で造り上げ、そこに当てはまってくる作品が「腹に来る」のです。

具体的に申し上げますと、私にとって髙山辰雄先生は、まさに自分の身体が直接感じてしまう存在でした。東山魁夷先生や杉山寧先生は、その技術や色彩のセンスが素晴らしいのですが、髙山先生の素晴らしさはその作品の内面的な部分にあります。先生の作品を見ていますと、表面に描かれた絵の状態だけではなくて、その奥に、作家が言わんとしている何事かが確かにあって、それが私の胸や腹にぶつかって来るのです。言い換えれば、作家の精神性内的な部分ということでしょうが、自分を圧倒して来るようなその力が日本画の大きな魅力だと思うのです。それをどのように理解し、どのようにお客様に説明するか、ということが美術商としての大切な仕事なのではないでしょうか。

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髙山辰雄「明けの星」 第19回東美特別展図録掲載

 

ただ、日本画の精神性の高さや深さという概念は海外の人には伝わりにくいようです。言葉や論理ではない、阿吽の呼吸というのでしょうか、禅宗では不立文字ということを言ったりしますが、我が国にはそういう文化の基盤があるので、多くの方に日本画を理解していただけるのでしょう。

速水御舟や村上華岳といった歴史的な画家の作品などは、まさにこの日本画の精神性の表現そのものでしょう。華岳の描いた観音像は、彼自身にとっての女性の美を極限まで追求し、昇華させたものであって、観音菩薩像を写生したわけではない、というところまで、美術商は踏み込んで、お客様に説明しなければなりません。実際、パッと見て美しいなあ、と思った作品はすぐに飽きてしまう可能性も高いのです。表面の美しさよりも、内面の温もり、魅力が大切なのは人間と同じでしょう。

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村上華岳「天人圖」 第20回東美特別展図録掲載

 

−身体で感じられるまでに内面化する、ということですが、それと「真実の美」とはどう関わるのでしょう。自分で何でも造り上げてしまうなら、「美の客観的基準」は基準にならなくなってしまいませんでしょうか。

淺木:美術商は自分が見て感動し評価し取扱った作品に責任を持たなければなりません。作品の表面的な部分に縛られることなく、その作品が持っている魅力を、自分の責任でお客様に伝えていくわけです。美の客観的基準というのは、何やら難しそうで、私は考えても仕方がない、と思っています。そんなものが簡単に手に入ったら面白くないでしょう。その基準を学んで絵を描いたら、みんな名作になってしまいます。

「個性」というと意味が大きくなりますが、作家はもちろん美術商も個性的であるべきだと思うのです。美術品は世界の全ての人にお勧めする性質のものではなく、ある美術商とあるお客様との関係の中でその本当の魅力を発揮するのではないでしょうか。

日本画の場合、作家は描く対象を眼の前に置いて作品を描くのではなく、スケッチに出たり、デッサンを何枚も描いたりして、下絵を作って、あれこれ構想してアトリエで作品を生み出します。その構想の奥にある作家の内的な部分を世の中に響かせる仕事を、私たち美術商は理解し扱うべきだと思っています。

以前、横山大観の仕事ぶりを元芸妓の方から聞いたことがあります。「河口湖に鞄を一つさげてやって来られて、朝から晩まで富士山の周りを歩き周るだけでスケッチなんか全くなされない。

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横山大観「不二霊峰」 第19回東美特別展図録掲載

 

それで宿に戻って好きなお酒を飲みながら、ようやく深夜にかけて絵を描き始めておられた」というのです。朝の富士、夕方の富士、雨の日、晴れの日、色々な角度で富士を見つめて、富士を自分の心の風景にして、自分の富士山を描かれたのですね。大観は実は偉大な哲学者で、その心象風景の高邁さは恐ろしいほどなのです。

言っても仕方がないけれど、そういう偉大な画家が現代にはいないでしょう。美術商の責任でもあるけれど、多少経済的に安定していれば、もうそれでよし、という画家が少なくありません。飢え死にしないで、とにかく絵が描きたいんだ、他のことはどうでもいい、というくらいの気概のある生き方は難しい時代なのでしょう。

美術商であれば、自分の眼を養い、高いレベルを目指して、積極的に自分を前に出した方がいいのですが、今は周囲から突出しないよう配慮して、余計なことを言わないでいる場合が多いようです。よくも悪くも平均的になって、かつてのような一匹狼がいなくなりました。

−そういう状況の中で、後輩の方々にはどのように接しておられますか。

淺木:何よりも、自分の眼を養う努力をするよう言い続けています。そのためにはとにかく多くの作品を見ることでしょう。まめに展覧会や個展に通ったり、画集を見たり、その作家の生涯を通した作品を見て行くと、その作家の本質がわかって来るものです。鑑定の場合だって、その作品だけ見ていても鑑識眼は養えません。その作家の作品を、スケッチやデッサンも含めて、とにかく数多く見る、という意欲が大切なのです。

さらに、歴史的なことも学習して行けば、他にも色々なことがわかります。たとえば、1924年に横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳ら巨頭6名を集めて結成して鎬を削った三越主催「淡交会」という展覧会がありました。何回か開かれているのですが、ここに出た作品は、巨匠がお互いを意識して気合を入れているので、名作が多いのです。なので、販売の時には「淡交会出品作」というと値段が違ってくるのです。その後も三越、髙島屋を中心に数々の名作を生んだ展覧会が多々開催されています。今、そういった展覧会が全く無くなってしまったことは残念でなりません。

鑑定について言えば、科学鑑定は大切で、可能な限りやるべきでしょう。紙の漉かれた時代や箱書き、落款、印章なども私どもが鑑定の根拠にしていることです。それでも、美術商が一番大事にするべきなのは自分の眼であって、科学鑑定はあくまでも参考に、と私は思うのです。というのも、科学は客観的なものですから、データーがあれば同じものを作れてしまいます。コンピューターで分析しても、偽作者の悪意は判断できません。精巧な偽作の品格の無さまでも把握する美術商の眼は、日々の努力でしか修得できないでしょう。

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