昭和天皇も讃えた功績。海の安全を築いた「掃海部隊」の戦後

jog20170526
 

貨物船や客船など、日本周辺の海は毎日数多くの船が往来しています。そんな航行の安全を築き上げてくれたのが、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介している旧日本海軍の「掃海部隊」です。終戦後、まだたくさんの機雷が残り、安全とはほど遠かった我が国の海。それらを命がけで除去した掃海部隊員たちの活躍と功績の記録です。

機雷除去に命をかけた男たち

2011年3月28日付け産経新聞は、一面トップに「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えている。

「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、「自宅が全壊家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」

東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊だった。

ある隊員からは、こんなメールが届いたという。「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」

国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、まさに武人の覚悟である。そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきた。桜林美佐さんが『海をひらく 知られざる掃海部隊』で見事に描いた掃海部隊員たちの姿がそれである。

「対日飢餓作戦」

先の大戦末期、米軍は対日飢餓作戦を実施した。これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など日本海側の主要港に約1万2,000個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、日本の息の根を止めようという作戦だった。

終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害された。

米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように語っている。

機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、もし終戦にならず、あと1年この作戦が続いたら、機雷のために日本本土の人口7,000万の1割にあたる700万人が餓死したに違いない。
(『海をひらく 知られざる掃海部隊』桜林美佐・著/並木書房)

海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。

終戦からわずか9日後の昭和20(1945)年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4,730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡。10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1,253トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていた。

日本復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、港湾と海路を安全にしなければならなかった。

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