「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」
しかし、彼らの活動が報われた瞬間があった。昭和25(1950)年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた昭和天皇が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。
しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で不眠不休の掃海作業が続けられた。安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。
15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。
お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記している。
高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、…隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。
「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」
「76人でございます」と申し上げると、続いて「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。
(同上)
荒れ海の登舷礼
昭和天皇は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。しかし、この日は大時化(しけ)であった。
海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊332隻が、二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で御召船をお迎えしていた。
海上保安庁長官・大久保武雄はこう記している。
私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。
ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、掃海隊の登舷礼に答えておられた。私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。
(同上)
巡幸の間、天皇のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、下の船室にもぐり込んでいたのだった。
荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。
乗員一同精一杯の準備をすすめていた。とにかく隊員は、大感激の一日であった。旧海軍時代はともかくとして、天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。
(同上)
国のため、国民のために、危険を顧みずに掃海作業を続ける隊員たちが報われた一瞬であった。