名誉の戦死者でも、戦没者でもなく
掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばであった。終戦時から昭和24(1949)年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、重軽傷者200名の被害が出ている。
昭和24(1949)年5月23日、関門海峡東口で起きた掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つである。同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記にこう書いている。
午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。
(同上)
浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容した。
殉職した西崎三郎・操機長は新婚ホヤホヤ、残りの3名も20代の独身だった。彼らの葬儀は表向きにできなかった。というのも、そもそも1907(明治40)年にオランダのハーグで締結された条約では、商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、連合軍の行為はまさに国際法違反そのものであったからだ。
おりしも開かれていた東京裁判では、日本の国際法違反が厳しく問われていたが、占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していた。
したがって、掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのである。