知の巨人が探る、吉田松陰の話が人を震えるほど感動させた理由

 

近代日本の扉を押し開いた天才・吉田松陰。彼の存在がなければ明治維新が成し遂げられたか甚だ疑問とする学者もいるほどのこの傑物は、どのようにして形作られたのでしょうか。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、知の巨人・渡部昇一氏の著作の一部を紹介する形で、吉田松陰の人物像に迫っています。

吉田松陰を松陰たらしめたもの

吉田松陰の卓越した人物像や足跡、近代史における位置づけなどは、私がここで改めて繰り返すまでもないでしょう。

長州藩の一藩士でありながら近代日本の先駆けとなって歴史を動かし、我が国の礎を築き上げる多くの逸材を輩出した不世出の思想家であり、教育者であり、兵学者。それが吉田松陰でした。

この松陰という人物は考えれば考えるほど、知れば知るほど不思議な、まるで雲の中にいる龍のような底知れないスケールがあります。これもまた、多くの人が等しく感じることだと思います。

松陰は文政13(1830)年、長州藩士の杉家に生まれ、6歳で吉田家の養子となります。10歳の時には藩校明倫館にて家学である山鹿流兵法を講じ、翌年には御前講義まで行ったというのですから、それだけでも人並み外れた学識を身につけていたことが分かります。

叔父の玉木文之進による幼年期からのスパルタ教育が背景にあったことは、よく知られるとおりです。

その後、21歳で平戸に遊学して以降、30歳で刑死するまでの歩みを見ると、そのほとんどは全国を旅しているか、牢獄に入っているかのどちらかでした。どこかにじっくり居を構えて、学を講じていたわけではありません。晩年、松下村塾で数々の逸材を育てたといっても僅か2年足らずにすぎないのです。

席を温めることをしなかった松陰が一体、なぜあれほどまでに人々を魅了し、影響を与える人物になったのでしょうか。一般の学者や思想家とはどこがどう違っていたのでしょうか。

そう考えていくと、松陰には若い頃から人とは大きく異なる部分があったことが見えてきます。日本中を回って西洋やアジアの事情に通じた人たちと交わり、見聞を広めていたのです。

洋学に止まりません。多くの儒学者のもとを訪ねて教えを請うています。藩命により21歳で長崎に遊んだ時もそうでした。陽明学者の葉山佐内や兵学者の山鹿万介に学び、その傍ら停泊中のオランダ船に乗って西洋の文物に触れ、その空気を体感します。遊学の翌年には、藩主に随行して江戸に上り、佐久間象山などに弟子入りしました。

その後の東北の旅では、尊皇攘夷思想のもととなる後期水戸学の教えに触発されるのです。これら幅広い和洋の学問の蓄積がバランスの取れた松陰の思想を形成していったことは間違いないでしょう。

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