京都の梅の名所「北野天満宮」にある七不思議

 

上方落語の祖・露の五郎兵衛

北野天満宮の境内に「露の五郎兵衛の碑」が建立されています。初代露の五郎兵衛は、京落語(上方落語)の祖です。1681年頃北野天満宮の境内にて「辻噺(つじばなし)」という話芸をはじめたことにより落語発祥の地と呼ばれています。今でも露の五郎兵衛は上方落語の大名跡です。

歌舞伎発祥の地

技芸上達の神でもある菅原道真公を祀る北野天満宮には、1603年に歌舞伎の祖出雲阿国が、「かぶき踊り」舞った記録があります。そのため、この地は歌舞伎発祥の地とも言われています。当時北野天満宮の境内で評判になれば、現在の円山公園、四条河原町でも成功すると考えられていました。

八棟造(権現造)

北野天満宮は実在の人間を神として祀った初めての神社です。本来神社は神道の聖域であり、天皇家一族の祖先をお祀りしている場所です。菅原道真のような例外を除いては、それ以外の人物が神社に祀られることはありません。

北野天満宮の建築様式は八棟造(やつむねづくり)と呼ばれるものです。横長の長方形の敷地に建つ本殿が奥に位置し、その手間に石の間があります。石の間は一番手前に参拝者が参拝する建物である拝殿と本殿をつなぐだけの小さな建物です。八棟造の屋根はその名が示す通り四方八方に幾重にも破風が突き出しているのが特徴です。この特殊な神社の建築様式を八棟造(やつむねづくり)と言います。

後の世に家康がこの神社建築様式を自らの廟所・日光東照宮に用いることを遺言で命じています。家康を大権現として祀る日光東照宮の建築様式にちなんでこれを権現造とも呼ぶようになりました。

神になろうとした2人(豊臣秀吉と徳川家康)

菅原道真はその怨霊を鎮魂するために後に朝廷が高い地位を与え神として祀られた人物です。これに対して豊臣秀吉と徳川家康は自ら望んで神になろうとした人物です。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は、自らが神となり、豊臣家が神の末裔になることを望んだと言います。秀吉の墓所・豊国廟(現在は阿弥陀が峰山頂)が造られた当時に描かれた狩野永徳作の洛中洛外図屏風にその証拠を見ることが出来ます。秀吉を祀る豊国廟の建物は北野天満宮を模して造られているのです。拝殿と本殿を石の間でつないだ神社形式の建物であったことが確認出来るのです。

先ほど三光門を紹介しました。通常神社は鳥居を入口としますが、北野天満宮には寺院のような楼門と三光門が建っています。これは、菅原道真の怨霊を鎮魂するために、人間を神として祀ったためです。実在の人間を供養する寺院とも、神を祀る神社ともつかない特異な形式となっているのです。神様や天皇家一族とその祖先への配慮といったところかもしれません。ちなみに本殿と拝殿が1つの屋根で覆われている形式の社寺は宮寺と呼ばれ、祇園造りの八坂神社も宮寺の1つです。

徳川家康

徳川家康を神として祀った日光東照宮の本社も権現造りという形式で、北野天満宮の神社形式を踏襲しています。北野天満宮は菅原道真という実在の人物を神として祀った神社です。拝殿と本殿を石の間でつなぎ、1つの屋根で覆う形式は、このように死者を神として祀る建築様式として後の世に定着したのです。それを実現して今も尚現存しているのは死後、関東を照らす神・「東照大権現」として祀られた家康の廟所・日光東照宮ただ1つです。

北野天満宮は道真公の怨霊を鎮めるために朝廷が道真公を天神様と祀って建てられたものです。日光東照宮は家康が死後神として徳川家と国家の繁栄を見守りたいと、自ら望んで建てさせたものです。道真公が、戦国の天下人・秀吉や家康にこれほどまで影響を及ぼしていたことは意外と知られていないでしょう。北野天満宮と日光東照宮、道真公と秀吉や家康公、意外な接点で結ばれました。

そんな豆知識を思い出しながら神社の建築様式を見るとおもしろいのではないでしょうか? 北野天満宮は他にもまだまだ興味深い話が沢山あります。これ以上深く掘り下げるとかなり専門的なものになってしまいますので、今日はこの辺にしておきましょう。

image by: Shutterstock

 

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