戦場から故郷への手紙ー「返事はいらない」ルソン島で散った16歳

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1月27日、フィリピンをご訪問中の天皇、皇后両陛下は自ら希望され、現地の戦死者たちをまつる「無名戦士の墓」を訪れ、深々と頭を下げられました。第2次世界大戦の激戦地として知られるフィリピンで犠牲になった日本兵は50万人以上。無料メルマガ『≪≪<戦場から故郷への便り>≫≫』では、同国ルソン島で命を落とした16歳の青年が故郷を思いしたためた手紙が紹介されています。

ふるさとの風や~戦没兵士の手紙集~その63

拝啓、故郷の皆様御元気でお暮らしの御事でしょう。僕も元気で御国の為、御奉公致して居りますから御安心下さい。

 

年若き十五歳にして第一線に来たることは男子の本懐之に過ぎたるものはありません。まだ目的地に行かないで九州の新田原に居ります。便所に行ったり、又洗濯に行ったりした時は故郷を思いだします。

 

皆様之からは寒くなりますからお体に気を付けて下さい。返事は出さないで下さい。目的地に着いてから。

 

では今日はこれで、大陸より故郷をお祈り致します。

 

昭和十七年十月二十二日  脇田辰蔵様

昭和20年9月13日 比島ルソン島にて戦死 16歳 陸軍軍属

15歳で徴兵され、16歳で亡くなった。すでに日本は降伏していたが、ルソン島では戦いが終わっていなかったのか。

フィリピンは太平洋戦争の日米の決戦場になった。マニラ市街戦(1945年2月)で10万人の死者を含む全土で、フィリピン人だけで約111万人が死亡した。

命を落とした日本兵はレイテ島で8万人、ルソン島で27万人、ミンダナオ島で6万人など約51万人を超える。連合軍も多くの死者を出した。

米軍の砲撃と空襲。反日ゲリラ討伐、スパイ摘発で日本軍が行った市民虐殺などにより住民は日本に深い恨みを残した。

1946年フィリピン共和国独立宣言。1956年に賠償問題が決着して国交が回復した。1962年皇太子夫妻が親善訪問した。

両国は戦後の早い時期に和解した。だが日本軍の行為に対する恨みは消えていないはずだ。今回の天皇の訪比で少しでもフィリピンの皆さんの心が癒えたらと思う。

今、軍事強国を取りつつある日本政府の方向は正しいとは言えない。天皇陛下の案じられる気持ちはここに行き着くのではないだろうか。陛下は国民に同じ轍を歩ませてはならないと痛感されていると思う。

image by: Wikimedia Commons

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 『≪≪<戦場から故郷への便り>≫≫ 』
戦没兵士の手紙集の連載です。雪凍る北満の地で、暑熱のジャングルや孤島で、傷つき倒れ、あるいは飢え、また太平洋の底深く沈められ、はては沖縄で武器も持たず丸裸で殲滅されていった人たち。 戦没兵士の思いを戦後70年の今に伝えます。
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