日本が第2次大戦中フィリピンで米国と戦わなければならなかった理由

 

比島における2度の日米激戦

このような背景の下、第2次世界大戦が欧州で始まります。劣勢の連合国、特に英国を助けるために、「中立法」があるために先制できないでいた米国は戦争を始める「きっかけ」として、「最初の1発」を日本に撃ってもらわなければならなかったのです。そのため、「対日石油禁輸」を強行します。当時、日本は100%米国から石油を輸入していました。備蓄は半年分。つまり半年後には、日本のすべての活動が止まるのです。

窮鼠(きゅうそ)猫を噛む。ついに日本は、最大の脅威である米国の太平洋艦隊が集結する真珠湾を奇襲するとともに、石油を確保するために、南方、つまりインドネシアのパレンバン等の油田奪取を決断したのです。この「南方作戦」の道筋にあたる比島は米国領であり、他の東南アジアはフランスや英国、オランダ等白人の植民地だったわけです。

これらの白人植民地軍を一気に撃破することにより、東南アジアのみならず中東やアフリカ諸国の人々に独立心を目ざめさせたのです。特に、当時世界の7つの海を制し、地球の40%を支配していた英国の、その植民地支配の源泉であったシンガポールを母港とする東洋艦隊を一瞬のうちに日本軍が殲滅(せんめつ)したことが、戦後の植民地主義解消に最大限貢献したとも言われています。

つまり、比島においては、大戦の初頭に日本軍が在比米軍を撃破しています。この時の戦いはバターン半島で行われ、マニラでは起こっていません。ちなみにこの時の米軍は12万5,000名。対する日本軍は4万5,000名でした。

米軍の敗戦の将は、マッカーサー元帥でした。その後は、日本が占領統治しており、やがて独立も果たさせました。そして、1944年10月23日のレイテ沖海戦から比島における米国の本格的反攻が開始され、マニラも戦場となり、米軍の圧倒的な無差別砲爆撃で瓦礫の山となり、フィリピン人10万人も犠牲となりました。このフィリピン死守の戦いから「特攻(特別攻撃)」が生まれたのです。

戦没慰霊祭におけるフィリピン代表のことば

戦没者慰霊祭においてはフィリピン人代表が、かつて次のようなスピーチも行っています。

当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。

 

中でも神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の「抵抗」だったと言えましょう。

 

そして、アジアで唯一抵抗してくれたのです。

 

かって日本の統治を受けた台湾や韓国を見て下さい。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。

 

これは日本統治下で施した「教育」の成果です。

 

ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちがモノを作ることを学ばせてもらえなかった。

 

人々は鉛筆すら作ることができなかったのです。アメリカが自分たちの作ったモノを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした。

欧米人のアジア観に多大な影響を与えた神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されているのです。

特攻隊員の遺した言葉

その特攻隊員が飛び立つ前に、友人である整備兵に遺した言葉です。

もう戦いは続けるべきではない。

 

しかし、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。

 

アメリカを本土に迎えた場合、恐ろしい国である。

 

歴史に見るインディアンやハワイ民族のように闘魂がある者は各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。

 

このため、特攻を行ってでも、フィリピンを最後の戦場にしなければならない。

 

しかし、これは九分九厘成功の見込みはない。では、何故見込みがないのにこのような強行をするのか。

 

ここに信じていいことがある。

 

いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史が残る限り、五百年後千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう。

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